隅田川(東京都)

 

★ 写真1 側で見ると青がかった緑色に見える
★ 写真2 テラスとコンクリートの堤防
★ 写真3 隅田川沿いの高層ビルやマンション
★ 写真4 水上バス乗り場と水上バス ↓
( ※ 冬休み中のある日の午前中に撮影した写真 吾妻橋〜桜橋にかけて )

 

隅田川の今
春のうららの 隅田川
櫂のしずくも 花と散る
のぼりくだりの 船人が
ながめを何に たとうべき

 これは、かの瀧廉太郎作曲の歌「花」の最初の歌詞である。この歌でも知られる隅田川は東京を代表する川の一つであろう。岩淵水門に始まり、東京湾に流れ込んでおり、全長約23kmにも亘る。ところが、現在の隅田川は、荒川の一支流で、澄んでいて綺麗な川だとは言い難い。一見濃い青色に見えるが近づいてみると緑色に濁っており、プラスチック等などのごみは浮いていないものの、何らかの浮遊物が目につく(写真1)。また、川の両側は護岸で完全に固められ、都民や観光客向けに散歩道としてテラスが設けられている(写真2)。つまり、都市景観として人の手が加えられた形で存在している川なのだ。川の周囲には高層ビルやマンションが立ち尽くしていて、まさに都会の中に残された唯一の自然形態である(写真3)。

 

私と隅田川

東京区立の小中学校で過ごす中で、私にとって隅田川は身近な存在であった。また、「花」を幾度となく歌ったこともあったのだろうか、大変親しみ深い川でもあった。

隅田川を知るきっかけになったのが、江戸時代から受け継がれている隅田川花火大会。高校生になってからはあまりの混雑さに嫌気が差しわざわざ川に赴く事はなくなったが、隅田川から仰ぎ見る夜空の彩りは趣きがあり、大変優雅であった。ある意味では隅田川は下町の文化・歴史を視覚的に感じさせる機会を提供してくれたと言っても過言ではない。また花火大会以外でも、隅田川に架かる橋や建物がライトアップされている夜景を楽しむことができる。

隅田川付近で、夏の終わりに台東区と墨田区に在学・在住の小学4〜6年生対象に「桜橋・わんぱくトライアスロン」が開催されている。これは、本物のトライアスロン競技を1/20にしたもの、言い換えるならば100m泳ぎ、5km隅田公園で自転車を漕ぎ、最後に隅田川沿いを2km走るという設定がなされた一種の大会のようなものである。小学生高学年になると、これに毎年参加した。また大会にでるクラスメイトを誘って、夏の午前中から隅田川に沿ってマラソンをしに行った日々のことも覚えている。太陽光に反射してぎらぎらと光る川面を見る度に夏を実感した。

夕方に川沿いを散歩すると、風が心地よく、安らげた。家族とゆっくり話しながら歩くこともあれば、特に理由もなく不意に思い立って一人で散歩することもあった。考え事がある時はテラスで隅田川を眺めつつしばらく歩けば、安心したり、気が晴れたりもした。

もともと水が綺麗でないため、川の中で生物を採集したり、泳いだりと、所謂川遊びをしたことはない。川の水を掬って口にする、などはもってのほかだ。しかしながら隅田川は東京都いう都会の地の中で唯一自然として、他の人々にとっても癒しを与える存在であろう。

 

隅田川の昔:20-30年前の様子

親に以前の隅田川の状態を聞いてみると、驚いたことにちょうど20-30年前は今より更にひどかったようだ。今の状態に至るまでには、隅田川を浄化させようという人々の強い試みと地道な努力が背景にあるということがわかった。生物が生息するにはあまりにも水は汚れており、悪臭も漂っていたそうだ。全ては高度成長期による発展により川はひどく汚染されてしまったのだ。祖母によれば、更に時間をさかのぼると、水がかなり豊富で、生物は勿論、うなぎや川海老などもいたそうだ。私

はこれを聞いて、一度は人間の手によって汚されてしまった川でも、一度人々にその重要な存在を理解されると、完璧までにはいかなくても川は回復できるのだと思った。また、それほど隅田川は人々に支えられ、愛されているのだと実感した。

 

インターネットから隅田川を学ぶ

隅田川と住民との繋がりには歴史がある。昔は直接的にまだ手付かずの状態の隅田川は人々に恵みを与えていた。魚や貝等の命を育み、畑を潤すことで食料を得る事が出来た。また、生活水として、更に輸送路として活躍していたようだ。例えば、特に工業化が進んだ江戸時代においては、川での運搬作業を可能にさせ、運送業や旅客業が発展した。屋形船や渡し舟などが発展したのも同じ頃だという。また、八大将軍、徳川吉宗によりり桜が植えられたことで、今まで貴族や武士などの娯楽であった花見が、庶民の間にも広まっていき、その過程で、川柳で隅田川が詠まれ、浮世絵に描かれた例もあるようだ。

 ↑ 「名所江戸百景 隅田川水神の森真崎」より      ↑ 現在の隅田川 

どちらの画像も、http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/buka/shidou/kankyo/t_gakusyu/gakusyu03-04.htmより) 

現在、今尚桜を観に多くの人が訪れていることから、江戸庶民に始まり、長い間多くの人に隅田川は親しまれていることを察した。

また、まだ水が豊富な時は、逆に水害に悩まされていた。江戸時代に大掛かりな改修工事を行ったにも関わらず、明治時代に入っても隅田川の水害が止むことはなかったという。特に明治43年に起こった洪水は、数十箇所もの堤防が破壊され、その爪あとを残した。27万戸の家屋が浸水し、被害者は150万人に渡り、水が引くまで2週間もかかった。この水害をきっかけに荒川方水路が作られ、方水路の方を荒川、荒川と今まで呼ばれていた川は荒川下流部の通称であった隅田川の名称を公式名称として定めた。

 

隅田川のこれから

今尚様々なイベントによって、隅田川は多くの人の暮らしの中に溶け込み、そして昔から今まで多くの人々に愛されている。

自然と人間の共存の困難な状況にぶつかることがこれからもきっとあるだろう。しかし、これからも人に愛され、何らかの形で共存していける川でいて欲しい。せっかくの四季折々の風情を楽しめる憩いの場でもあるのだから、その歴史と文化をも大事にしていきたい。そうすることで住民以外の人たち以外にも、なるべく多くの人に隅田川を知ってもらえる機会が増えるであろうから。また、例えもはや川本来の自然の状態に戻ることが出来ないとしても、地域一体になって隅田川をより一層綺麗な状態にし、植物や生物が昔のように少しでも多く回復させられたら、それは隅田川にとっても我々にとっても素敵なことのように思う。

参考文献

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