自宅から電車で40分くらいかけて行った所に隅田川という川がある。隅田川は夏の花火大会
でも有名な川である。その川を今回のレポートで取り上げてみたい。
実は近所にも目黒川という川がある。しかし、私はあえて隅田川を選んだ。それは、以前、私
が隅田川近くの病院に入院していた時、その病室から見えた風景に隅田川があったからだ。後
から知ったことだが、実は私の病室が一番よく隅田川が見られる所だったそうだ。もちろん、新緑
に囲まれている滝や、清流には劣るかもしれないが、それでも病室から見える隅田川は、美しか
った。入院して病室に入り、ベッドに腰掛け、隅田川を見た瞬間、涙が溢れたほどだった。昼間、
晴れている時、川の水面が太陽の光で反射してきらきらと光っていた。夜は隅田川の上を通る何
艘もの屋形船が幻想的で眠れない時はその光景を、音楽を聴きながらよく眺めていた。隅田川
は、病室からただ見ていただけではない。病棟から外出ができるようになった時に、両親とともに
よく隅田川沿いを散歩して歩き回った。時には1時間ほどかけてずっと歩き回ったこともある。春
先でもあり、花見を楽しむ人の姿をよく見かけた。印象的だったのは、退院する少し前の夕方、隅
田川沿いを母と歩いていた時、大量のくらげを見かけたことだ。丁度、日本海側で巨大クラゲが
大量発生した後のことであり、その影響かなと母と話しながらもさすがに不気味な思いがしたもの
だ。隅田川と私の関係はこの程度で、川自体で遊んだ思い出はないが、やはり思い入れが深い
川なのである。
隅田川についてのweb-pageがあるかを調べてみたところ、隅田川に関連するホームページは
多々あり、その主なものが花火大会に関するもの、隅田川の橋を紹介するもの、隅田川の散策
コースを紹介するものであった。その中の一つに、個人が作っているホームページで、隅田川の
歴史が書いてあるページがあった。そこには、隅田川の川の名前の由来、渡し舟の歴史、隅田
川と住民との関わり、隅田川が浄化されていった過程などが書かれていたが、最後に隅田川に
架かる橋の紹介があった。隅田川は意外と広域に渡っており、いくつもの橋が架かっている。隅
田川の橋も一つの魅力であり、隅田川と人とをつなぐ役目を果たしていることがこのホームペー
ジや、その他多くのサイトが橋の紹介をしていることからも分かる。
隅田川の近くに行く用事があったため、隅田川の現在の様子を見に、2006年12月29日、足
を運んだ。川沿いは幅広い遊歩道があり、改めて注意して見てみると、一応そこには「中央区立
明石町河岸公園」という名が付いていることが分かった。遊歩道では犬を連れて散歩する人や、
ジョギングをする人の姿が見られた。また、観察していた時、丁度、川を観光用の船1艘と、東京
消防庁の船が2艘通っていった。川の水面は以前と変わらず太陽に反射して奇麗だったが、水
は濁っており、ごみもいくつか浮かんでいて、以前より汚れてしまった感じがした。それとも入院し
ていた時に見た時は川に注目していなかったため、気づかなかっただけかもしれない。
20〜30年前の隅田川の様子を聞くため、隅田川から比較的近い築地駅付近で、2007年1
月5日、9軒の昔ながらのお店をめぐって訪ねたところ、5軒のお店のご主人にお話を伺うことが
でき、そのうち3軒のお店の御主人からは丁寧にお話を伺うことができた。また、もう1人、母の知
り合いで隅田川付近に住んでいる方からもメールでのやりとりで20〜30年前の隅田川の状況を
教えていただいた。5軒のお店の御主人や、メールで教えてくださった知り合いの方がおっしゃっ
ていたことで共通するのは、20〜30年前、東京オリンピックを境にした高度成長期時代であり、
次第に川が汚染され始め、工場や家庭から、排水などが垂れ流しになっていた、ということであ
る。時間を費やしてお話をしてくださった3人の方、またメールで教えてくださった方の話を総合す
ると、20〜30年前のみならず、それ以前から現在に至るまでの隅田川の様子を知ることができ
た。そのため、初めに30年前以前、次に20〜30年前、最後に現在、という形で4人の方のお話
をまとめさせていただく。
30年前以前のことに関して、お豆腐屋さんの御主人は何もおっしゃっていなかったが、須田商
店の御主人夫婦は、当時の状況を沢山話してくださった。50年前は、今、隅田川に架かっている
勝鬨橋はなく、その区間は渡し舟で渡っていた、という。月島の先にある佃島というところは漁師
町で、当時は川が奇麗だったため、海苔を作っていたそうだ。また、今は花火大会を屋形船から
見る人も多いが、その頃、屋形船はなく、花火大会は皆、橋の上で見たものだ、とおっしゃってい
た。更に、隅田川の川沿いには堤防はなく、砂浜だったそうだ。また、近くにある「築地川公園」に
は昔、築地川が隅田川の支流として流れていたという。文房具屋さんの御主人も、かつては隅田
川の支流が流れていたとおっしゃっていた。また、その御主人がおっしゃっていたのは、50年ほ
ど前に取れた魚は、魚の臭みがない、というわけではないが、今とれる魚につく、独特の臭いが
せず、しかも、川には、今はなかなか見られないコハダもいた、ということだった。メールでお話を
してくださった方は、50年前のことについては触れていらっしゃらなかった。
20〜30年ほど前のことについて、お豆腐屋の御主人は、排水は大体が上流から流れてきた
ものだとおっしゃっていた。その方は、川が汚染されていた当時、川が汚染された影響で悪臭が
しただけではなく、魚も臭かった、という。その方によると川が汚染されていた時にボラを釣った
時、臭くて2〜3mは近づけなかったそうだ。しかし、須田商店の御主人夫妻によると、祭りの時
になるとそのように汚染された川に御輿を担いで入っていた、とおっしゃっていた。最後に、文房
具屋さんの御主人がおっしゃっていたのは20〜30年前に一番川が汚く、油も平気で垂れ流しだ
ったそうだ。最後に、メールをくださった方は、隅田川の汚染による悪臭について、隅田川に架か
る橋のうちでも特に、白鬚橋、桜橋、また言問橋の両岸の墨田公園の近辺でひどかった、と教え
てくださった。
現在のことについては、須田商店の御主人夫婦や、文房具屋の御主人は、ハゼやボラが釣れ
るようになり、川は奇麗になった、とおっしゃっていた。しかし、それに対し、お豆腐屋さんの御主
人は、ご趣味である釣りの経験から、今でも川は汚染されている、とご指摘なさっていた。そこで
取れる魚は大体ハゼが多いが、その1割は尾や背びれがとれるなど、変形しており、また赤い斑
点があったりする奇形の魚なのだそうだ。一番最近釣りに行ったのは昨年の12月だというが、そ
の時も同じだった、と断言なさっていた。また、釣りをしているとごみが引っかかることもあるとい
う。その方は、その理由を20〜30年前の反省を元に浄化が進んだものの、奇麗になったのは
川の表面だけで、川底には昔の汚染物が蓄積しており、洪水が起きてもその汚染物が流れない
ためだとおっしゃっていた。ちなみに獲れた奇形の魚を保健所に持っていくことも考えたそうだ
が、お金がかかるため、申し出はしていないそうだ。文房具屋さんの御主人は、川付近の開発に
ついて、しない方がよかったと批判していらした。今、隅田川付近にはたくさんのビルが立ち並ん
でいる。そのビルが、風の通りを遮るため、夏に異様に暑くなる地域が出てきた、という。また、そ
の方は現在、隅田川にはごみは少なくなり、魚も取れるようになり、その魚は佃煮などにされて売
られているが、それも人体に対して安全とはいえないのではないか、とおっしゃっていた。メール
を下さった方は、今では浄化されたために川魚が戻ってきた、ということと併せて、現在、隅田川
の有名な花火大会は、かつては異臭のひどかった桜橋のたもとで行なわれており、早慶レガッタ
のレースもここで行なわれている、と教えてくださった。また、隅田川沿いの桜並木は美しく、その
美しい景色を唄い、「花」という小学校の校歌もできた、ともおっしゃっていた。しかしその方が残
念がられていたのは、かつてから隅田川の両岸にはホームレスの方たちが住む姿が見受けら
れ、今でもそれは変わらない、ということだ。
インターネット上で、中央区のホームページから隅田川について調べていた時、「中央区水辺
利用の活性化に関する方策」という資料が見つかった。それによると、お話を伺った隅田川だけ
ではなく、東京全体の川は、高度成長期に伴い汚染され、その時代には川から悪臭が漂ってい
たようだ。また、台風対策のためにカミソリ堤防と呼ばれる、高潮を防ぐための高い堤防が建てら
れたという。異臭と堤防。次第に住民は川から離れていった、と記されていた。しかし下水道の普
及、環境改善に向けて社会の関心が集まり、徐々に川は浄化され、高い堤防も取り払われ、再
び住民が川に関心をむけるようになったようだ。メールを下さった方がおっしゃっていた早慶レガ
ッタは、実は水質の汚染によって中止されていたものが浄化により復活したものだった、と分かっ
た。現在、川の多い中央区では、その特性を生かし、隅田川沿いを「快適な水辺空間」にし、住民
に親しみやすい川にしようと様々な計画を推進している。川沿いが広く舗装され、散歩コースなど
に活用されるようになったのもその一環のようである。また、あのようだ。今後の計画としては、川
付近のスペースを使用し、芸人のパフォーマンス、フリーマーケットやコンサートを開催する、など
川を中心に、町を盛り上げていくと書かれていた。すでにその計画の1つ、オープンカフェの試み
は行われているようだ。
資料では、このように、「水辺空間」を利用して川に親しめる町にしよう、という取り組みが行わ
れているようだが、これでは隅田川が「泣いて」おり、「見捨てられている」状況で、更には「自然に
近い形で置かれている」とはいえないと考える。それは、川そのものに目が向けられていないか
らである。川が住民によって直接触れられ、考えられるようになって初めて、川が本当に「幸せ」
で、「愛され」、「自然に近い形におかれている」と感じると思うのである。今回、年末に改めて隅
田川沿いを訪れてみて、川と遊歩道の間には柵があり、川は眺める対象という印象を受けた。か
つて訪れたいくつかの森林に囲まれたような川ではまず川の水に触れてみようという考えが浮か
んだが、そういう感じではないのである。また、川が濁っている様子を見て、入院していた当時の
自分も、川ではなく、川の付近を見て、楽しんでいただけであったと気づいた。お話を伺った文房
具屋さんの御主人がおっしゃるように、ただ単に、「快適」にするために開発を押し進めればいい
のだろうか、とも思う。確かに聳え立つ高層ビルに囲まれた川は不自然な感じがした。川そのも
のに注目し、住民と川がもっと触れ合えるようにするにはどうすればよいのだろうか。コンクリート
の遊歩道もいいが、須田商店の御主人夫妻がおっしゃっていたような、かつての砂浜や、土手な
どがあれば、自然に川に触れられる機会ができるのではないかと考えた。もちろん、柵は転落防
止のためにとりつけられたものであろう。しかし、一部だけでも柵をとりはらい、少しでも、川に近
い距離で触れる場所ができたら、と思う。また、川の浄化などに地域全体で取り組む計画がもっ
と活発になればいいのでは、と考える。確かに、インターネット上で調べた中央区の広報紙平成1
6年6月1日号によればこの計画は、すでに行われており、小学生などが、隅田川の水質調査を
したと書かれていた。しかし、お豆腐屋さんの御主人などのように、川の異変に気づいていている
のに、言い出せない方もいる。これでは、せっかく川のことを考えている方の思いを無駄にしてし
まっている気がするのである。柵を取り払い、川に触れられるような場所を設け、水質調査など住
民を参加させるプログラムを充実させるとともに、川に対する変化に気づいた方がもっと自由に
区に申し出ることができるようにすることで、より、住民の川に対する関心がより高まるのではな
いかと考えた。区などから提供されるプログラムや、川付近の「空間」を利用した催しだけではな
く、住民自らが川自身をみつめ、その大切さや、不思議さを知り、それを伝え、川を中心に動こう
とするような取り組みができてこそ、川が本当に幸せになるのではないか、と思う。
参考文献
<インターネット>
●東京都中央区、中央区土木部管理課、「中央区水辺利用の活性化に関する方策『水の都中央区の復活〜水辺とともに歩む中央区をめざして〜」、2006年4月発行、確認日時2006年12月27日、<http://www.city.chuo.lg.jp/kurasi/kentiku/mizube/files/honshyousaishuu.pdf>
●東京都中央区、広報紙「区のお知らせ中央」、「ふれあい広場 隅田川から地球環境を考えるー水の調査隊」、2004年6月1日号、確認日時2006年12月27日<http://www.city.chuo.lg.jp/koho/160601/fre0601.html>
●「浅草の歴史と観光」、『隅田川』、確認日時2006年12月27日<http://www7.ocn.ne.jp/~sehayama/sumidariver.htm>
<インタビュー>