NS-III 「自然の化学的基礎」のまとめ
吉野 輝雄 2/24/2003
"Introduction"にはイントロとしての役割があり、このGE講義ではそれに徹したつ
もりだ。
さらに専門的に深く、本格的に学ぶには、化学、物理学、生物学を、そして地球科学、
環境科学を学んでほしい。毎日の生活の中で少しばかり水問題に関心を向ける努力を
すれば、新聞、TV, Internetなどで頻繁にとり上げられている事に気づくだろう。21
世紀は、エネルギー問題、情報化の時代であると同時に、水が世界的に重大な課題に
なることをクラスの中で学んだ。水資源の利用、海・河川の汚染問題は、自然科学・
科学技術の問題にとどまらず政治・行政、経済の問題でもあり、さらに国境を越えた
グローバル問題でもある。
クラスの中で何度も強調したように水と無関係な生活、人間活動はほとんどない。そ
こで、これからも水と人間の関わりを現実社会の中で学び、考え、発言し、行動して
行ってほしい。
クラスを出てから再会した時に、あなたのさらなる「水発見」「水体験」「水問題へ
の行動」について聞かせもらうのを楽しみにしている。
●クラスの中で“究極の尺度”を示した:
・時 (宇宙の始まり・150億年から現代まで)
<「地球カレンダー」のレポート課題/「150億年の遺産」のVTR>
・広がり(宇宙の果てまでの距離1025mから素粒子のサイズ10-18mまで)
<Powers of TenのVTR>
・温度(ビッグバンの時の温度1020Kから全ての物質が固体となる絶対零度0Kまで)
<「水を冷却・加熱する」の学びから>
そこで、究極の3次元学習 をめざそうではありませんか:
我々は時間(time)ベクトル、空間(space)ベクトル、行動(action)ベクトルの中にいる。
あなたはどこまで行動ベクトルを大きくすることができるか?
● 「水」について考え始めると実におもしろい、と多くの人が言う。なぜだろうか?
なぜ人間 は水に惹かれるのだろうか?我々はなぜ水を見たり、緑を見ると安らぎを
覚えるのだろうか? それは、「我々は水(海)の中から生まれた」→「今も水
(海)を内に抱えて生きている(身体の 60-70%が水)」→「身体が水を求めるよ
うに知性も感性も水に惹かれる」故かも知れない。
古代ギリシャの哲人ターレスは、「万物の根源(アルケー)は水だ」と言った。
実に、的をついた洞察だ。水は全ての動植物の生命を支え、人間の日常生活にも不可
欠だ。雨、水蒸気、雪・氷と姿を変え、自然を造り、人に安らぎを与えてくれる。水
の重要性に反論する人は多分いないだろう。
水は奇跡の物質だ;物質の中の最高傑作品の一つといってもよいだろう。小さな分
子でありながら他に類を見ないユニークな性質をもつ不思議で魅力的な物質だ。自然
科学的に水の特性を説明することが可能だが、海からの蒸発、雲の移動といった地球
レベルの挙動を予測することは未だに不可能だ。我々の身体を含む地球上の全ての存
在と関わりをもつ水とは一体何なのだろう?水は未だ謎の物質だ。
そこでさいごに、講義の範囲を超えた「自然(科学)と人間について」の個人的見解を
述べてみたい。
●聖書・創世記1:1 「初めに神は天地を創造された」を私がどう受けとめているか?
「自然科学と信仰」についての見解である。
How(「自然法則がいかに成り立っているのか」)を究める人間の営みが成立し自然科学となった:
自然科学は、普遍的自然法則の内実を物質系、生体系、宇宙の中にさがす人間の
営みである。
科学技術は、自然科学の知識体系を利用して新しい機械、電気・電子製品等を造
り利用する営みである。
Why(「なぜ自然が存在するのか、なぜ自分がここにいるのか」「この根源的問い
にどう向き合うのか」)への応答が信仰だ。
自然科学は神がなぜ存在するのかを問わない(それは科学の問ではなく信仰の問題だから)。
初め(根源)があった事、天地を創り人間/私の生命を造った創造主の存在を私は信じる
(これが私の信仰表明)。
すなわち、創世記1:1 を「初めに神は、天地を支配する自然法則を定められた。
その自然法則に従って神は天地万物を創造された」と信じる。 自然法則は天地創造以来
不変だ。そうでなかったならば、自然科学は成り立たない。
これが今の私の自然科学と信仰の関係についての見解だ。
「科学が世界を理解しようとするのに対して、一般に宗教は生に意味を与えることを
その使命にしてきた。科学は神を排除するわけではなく、神の存在を肯定も否定もし
得ないのです。」(リブース「世界でいちばん美しい物語」)
創世記によると、“神は第1日目に光、第2日目に水、第3日目に植物、第4日目に 太陽と星と月を、第4日目に動物、そして第6日目に人間を造られた。神は創造された すべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった”とある。これは、神を 信じる者が天地創造の順序(進化)を直感的に(科学的にではなく)言い当てたもの である。われわれ人間も数十億年もの長い期間の進化の過程を経て神によって造られ、 宇宙/自然の中に置かれた存在である。 創世記は「神は御自分にかたどって人を創造され、男と女に創造された」と記して いる。 人間が神のかたちにかたどって造られているとはいかなる意味か?人間の知的、感情 活動も霊性(信仰心)も天地創造の神が定めた自然法則からはずれてはいない、とい うことか?これは大問題だが、ここではあえて答えない。ただ、人間(自分の中)に は、神のかたちがあるかのように真実を求める心と、その正反対の悪魔性が潜んでい る事を認めざるを得ない。その事実にたじろぎつつ、なお生きることと死ぬことの意 味を問い続けている存在が人間/私自身である。 このような問いを哲学というのだろうか? そうであるならば、人間は、哲学的存在 である。すなわち、「いかに生きるか?」を問い続けている存在である。 天地創造の神との関係(信仰)からすると、いかに生きているかが問われている存在 である。
あなたはどこから来たのか?
あなたは今どこにいるのか? (Why are you here now? )
あなたを囲む世界、隣人、自然とどのように関わっているのか?
あなたは、これから何をめざし、どこへ何をしに行こうとしているのか?
このような全ての人に与えられている問いにどう答えるか(答えようとすること、答
えることを止めること、馬鹿にすること、無視する答えも含めて)がその人自身の生
き方であると思うのです---。
できれば、みなさんの意見をお聞かせ下さい。
元国際基督教大学理学科教授
吉野 輝雄
e-mail: yoshino@icu.ac.jp,
URL: http://subsites.icu.ac.jp/people/yoshino/