「川と人間生活」

竜の口川

 

 生まれてから現在に至るまでに3度ほど転居したが、家の近くには必ずと言っていいほど川があったように思う。学校の授業などを通して川の観察や調査をしたり、通学路の途中にある川を毎朝見ながら通ったりしていたので、川と聞いて思い出すことは多い。大小様々な川の姿を見てきたが、ここでは私にとって最も親しみ深いひとつの川を取り上げようと思う。

 

 生家の近くにある竜の口川(たつのくちがわ)には、群馬県の赤城山麓から湧き出る清水が流れている。もともとこの赤城山には水源が豊かで、天然水の湧き出る場所を求めて遠くから訪ねてくる人もいるほどである。大きな川ではないが一級河川に指定されており、その支流は赤城山ふもとの富士見村などに広がっている。一級河川とは言えど川幅が広いところでも3メートル程という小さな川であるが、その先は利根川へと続いているという。その竜の口川の支流のひとつが私の生家のすぐ横を流れており、幼少期の遊び場の一つとなっていた。川の流れる場所は、土手から2メートルほど窪んで小さな渓谷のようになっており、そこへ降りて遊んだことがある。子供が2・3人入るのがやっとという広さの川のほとりには、季節の草花が生い茂っていた。ススキなど背の高いものも、タンポポやカラスノエンドウなどの小さなものも入り乱れて生えており、人の手の入った形跡がほとんど見られない姿であった。川で遊ぶということは、川そのものだけでなくその周りの草花で遊ぶということでもあった。あれほど植物が豊かだったのは、川の水が豊かできれいだったからかもしれない。サワガニがとれたこともあり、小さな生き物の住処でもあったことがわかる。

 さらに印象深いのは、この竜の口川の支流において蛍が見られたことである。15年くらい前までは毎年夏に多くの蛍が見られ、川のほとりの蛍草の周りに舞う蛍の姿を楽しむことができた。これは蛍が住めるほどに川の水が純粋だったこと、また、蛍の好む植物や餌となる生物が十分に育つ環境があったことを証明している。

 

 現在の竜の口川、またその支流の様子を観察した。竜の口川本流の上には橋が架かっており、川岸にも容易に降りることができる。小学校の通学路にこの橋があったため、毎日この竜の口川を通っていたが、当時と現在とではその様子に異なる点が多くある。まず、川の水量の減り方が年々顕著になっている13年ほど前は、この川を通ると水の流れるドドーッという音が周りの木々に響いているのが感じられた。現在では、水の流れる音はするものの川の幅はごく細くなり、水の流れる勢いも弱くなっている。また、私が小学生の頃よりも周辺の整備が進んでおり、自然のままの川の姿はあまり感じられない。川の両端はコンクリートの土手で無機質に固められている部分もあり、それに従って川岸の植物も減ってきている。また、何よりも川の景観を損ねているのはところどころに落ちているごみの存在だ。数はそれほど多くないが川の底にはビニール袋や空き缶などが沈んでおり、これほど自然にそぐわないものはないと感じる。水は濁ってはおらず川底が見えるが、生物の姿は見えない。周辺環境の整備などに伴ってこの川が生物にとって快適な環境ではなくなってきているのかもしれない。水質については、下水道などの整備がゆきとどいたために一時期よりは改善されたものの、今でも生活排水が流れ込むことがあるという。これは山麓から湧き出る清水のみが流れていた竜の口川が、この数十年間の間に生活様式の変化などに伴って生活排水が流れ込む場所にされてしまったことが想像できる。前述した蛍も10年くらい前からは見られなくなった。水質が低下したことに伴い、蛍草が生えなくなったことや蛍の幼虫の餌となるカワニナがいなくなったことが原因となっているようだ。最近では飼っていた小型のカメを川に逃がす人もいるようで、そのようにしてもともと竜の口川の生物ではないものが外部から持ち込まれ、それらが従来の生態系を乱しているとも考えられる。

 

 2030年前の竜の口川の様子を両親と祖父母に聞いた。祖父母は50年以上この川の近くに住み、その様子の変遷を見てきたという。母が子供の頃、またそれ以上前から竜の口川は子供たちの遊び場のひとつであったそうだ。川底の石をひっくり返すとサワガニやドジョウなどがおり、ゲンゴロウやタガメなどの水を住処とする昆虫も見られた。水に生きる動植物や虫たちにとって快適な環境だったことが想像できる。また、畑でとれた野菜を川で洗ったり、川の冷水に浸して野菜を冷やしたりと、人間の食生活にとってこの竜の口川が大切な役割を果たしていたことがわかる。家の大掃除の際には、障子紙を剥がした障子の桟を川の水で洗ったという話も聞くことができた。祖父が子供の頃、60年ほど前にはウナギもとれたというから驚きである。以上の内容をまとめると、竜の口川は近くに住む人々の生活の様々な面に密着しており、今よりも身近な存在だったことがわかる。

 

 また、竜の口川についてのwebページがあるかどうかを調べたところ、google29件の検索結果が出た。竜の口川沿いに美術館を構えるある芸術家のホームページでは、この川で蛍が見られたことなどについて触れている。私の通っていた小学校のホームページでも、周辺の豊かな自然のひとつとして竜の口川を紹介している。また、竜の口という名前は神奈川県鎌倉の西にある地名であり、鎌倉と富士見村周辺の地形が似ていることやこの地が北条氏とのゆかりがあることを表す名前だと述べているものもあった。なお、昨夏の集中豪雨によって竜の口川が氾濫し、周辺住民の一部が避難するなどの被害が出たことを記録している群馬県のwebページもあり、小さな川でも豪雨の際には脅威となりえるのだということを実感した。現在は対策として水路工事が行われているという。前橋市のホームページには、市内を流れる川の一覧があり、竜の口川がどこの川へつながっているのかなどを知ることができ、小さな竜の口川が遠く続いていく様子が感じられる。私にとってはあまりに身近な川なので、このようにいくつかのwebページがあるということは意外ですらあった。しかし、これらは竜の口川が自然の一部、地域の歴史の一部としてみなされていることであると思う。喜ばしいことである。

 

 今回、もっとも親しみのある竜の口川についての観察と考察をしたが、川について考えることは川だけでなく自然全体について考えることでもあると気づいた。川を観察していると、川のまわりの生物や植物などの変化にも気づく。これまでに挙げてきたものに加えて気になったことがある。13年ほど前までは竜の口川本流の川岸沿いには松の木が生い茂っており、昼間でもその辺りは薄暗かったのに対し、現在では松の木は当時の半分以下の本数に減ってしまっている。小学生の通学路であるということを考慮して、昼間は明るくなるように伐採されたということもあるが、それ以外に大きな原因があった。松の木を枯れさせる虫が住みつくようになり、次々と松が枯れていっているのだと祖父から聞いた。一見、川それ自体にはあまり関係がないように思えるが、竜の口川の変化に伴って生物が少なくなったことと同様、その周辺の林などの生態系にも変化が起こっているのかもしれない。私がこの川の近くに住んでいた約13年前と現在とでは明らかに自然環境に変化が起こっていると感じる。

そしてそれらの変化は、ほとんどが人間によってもたらされたものであると言ってよいだろう。数十年前は近くに住む人々にとって身近だった川が、今では関心を失われているという印象を受ける。そして川は人間の都合によって姿を変えられていく。川岸のススキなどの背の高い植物が枯れているのが目に付いたが、これはただ単に冬だからということよりも、近くの畑で雑草駆除などのために農薬をまいているためだろう。植物にとって有害なものが川の水にとって有害ではないはずがなく、そのようなことの積み重ねが次第に川とその周辺の自然環境を壊していくのである。野菜を川で洗っていたこともあると上で述べたが、野菜についた泥を川で洗い流してもそれほど川の水質には影響しないだろう。泥は川底へ沈んでいくからである。しかし、利便性を追求して台所や風呂場などからの排水が流れ込むようになれば、当然油分や非水溶性物質といった元来の川の水の成分とは相容れないものが混じってくる。これらはすべて、生活の利便性の追求が、川をはじめとする自然への関心に勝ったことからくるものであろう。長年、この竜の口川の近くで暮らしてきた祖父母は、川にまつわる様々な出来事や思い出を持っていることが話から感じられた。しかし彼らも生活様式の変化に逆らうことはせず、変わっていく自然の姿を残念に思いながらも関心は薄れつつあるようだ。自然が比較的豊かに存在する田舎で暮らす人でさえ関心が薄れ、川の姿が変わりつつあるのだから、都市部の川はどれほど人間の都合で姿を変えられてきたのか想像もつかない。かつて人間に親しまれ、幸せであったろう川は、次第に本来の自然のかたちからはかけ離れ、見捨てられつつあるのかもしれない。竜の口川を見ていると、そんな川の悲しみや寂しさが伝わってくるような気がした。川の幸せを考えない、人間の都合だけを考えた管理や整備は、川を孤独な存在にする。以前、岐阜市に住んでいたときには家の近くに長良川が流れていた。この川は今回取り上げた竜の口川とは違って大きな川であるし、鵜飼いなどでも有名である。豪雨などの際には川が氾濫して被害をもたらすこともあるため、一年を通して長良川に対する人々の関心は高い。川で毎年行われる花火大会の後には地元住民が必ず川岸の清掃をするなど、川をきれいに保とうという地域の姿勢が垣間見える。事実、この長良川は下流のほうでも魚が住める程度の水質を保っているし、夏には川に入って泳ぎを楽しむ人の姿も見られる。大きな川だけでなく、ごく近くに住む人だけが知っているような小さな川も同じように親しまれ、大切にされたいと思う。

 

生活様式の変化に伴って、人々の関心が変わっていくのはある程度は仕方がないことであるし、頑なに否定すべきことではない。しかし、もう少し川に目を向けてほしいと思う。昔のように川で洗い物をするべきだということではなく、食器を洗ったあとや風呂で体を洗ったあとの水がどこへ流れていくのかと考えてみたり、たまに川の様子を見に行ってみたりするだけでいいだろう。そうすることで川の存在を完全に人々の関心の外へ閉め出してしまうことが防げるかもしれない。人間の生活が変わっても、常に関心を持たれ続け、かつてこの川がもっと身近な存在であったことを語り継がれる存在であってほしい。そのためには、竜の口川の近くで暮らす人々が川に親しんできたように、これからも川を見守り続ける必要があるだろう。