「私の川との想い出」多摩川(東京都)

 

 私が生まれ育った街、世田谷区の喜多見という地域付近にはわりと有名な川が流れています。その川は「二子玉川駅」と「二子新地駅」の間で東京と神奈川の境目にもなっています。私はそんな川と5歳くらいから遊んでいました。その川があったからこそ、私は元気で活発な男児として育ったのです。自宅付近から歩いて徒歩10分、広いフィールドや白バイ隊の教習用滑走路があったり、とにかく広かったのです。

 

 この川のお陰で幼少時代は色々な想い出ができました。私はこの川に色々教わりました。どんな子供でも必ず人生で一度は体験する「始めての自転車走行」もこの川で始まり、ウィリー(前輪を上げたままの走行)もこの川の滑走路で上達し、ローラーブレードもここで練習して、我が家に始めて犬が来たときもこの川辺を散歩しました。小学校の頃はボーイスカウトにも入っていて、たまに「ボランティア活動」で川のゴミ拾いをみんなでしました。小学校の友達と学校の帰りは川で石を投げたりして、とにかく外で遊ぶのが大好きな育ち方をしました。小中高学校すべてが二子玉川駅付近だった為、川とは離れることがありませんでした。中学校の頃は友達親子などと川に行ってお花見やバーベキューもしました。たまにみんなでサッカーや野球をしたりと「遊びに行くなら川」という考えができていました。

 

 そんな幼かった私や友達とかも高校生になると川の使用法もちょっとずつ変わっていき、川はやがてたまり場になって行きました。授業をすっぽかして日中に川辺で太陽を浴びに行き、夜は学校の帰りに川でみんなと飲んだり騒いだり。たまに川で友達と二人きりで相談しあい、たまには数人で花火をしたりと、1秒たりとももったいない時間はすごさなかったのです。毎日が川での想い出作りでした。皆の想い出場所となっているこの川ですが、やはり時代の流れに沿って変わってきたようです。20年前の川はとても汚れていたらしく、汚染されていて泡が吹き出ていました。それを見た東京都がとりあえず「鮎がすめるような川にしよう」と決めて、大きな運動を始めたそうです。やがて時は経ち、川はきれいになっていき、今の川があるのです。周辺でゴミのポイ捨てとかも少なく、緑がいっぱいで風景画を描くために人もよく来ていたそうです。私が小さい頃もよく釣りをする人たちがいましたが、今ではさらに増えています。東京都が頑張ってくれたおかげであの川に子供が入れるようになったのです。

 

 幼少時代では常に私の「育て親」でもあった川ですが、数々の想い出の中でも一番楽しい想い出となったのが二つほどありました。まずひとつ目は私の高校生活最後の4月末の時のことです。4月30日の午前8時に私と高校の友達等は起床し、8時30に登校。普段とはなにも変わらなかったのですが、ひとつだけ変化を私達は加えました。「Senior Prank」と言って、それは高校3年生の皆がそろって学校に「prank」、いたずら、をするという企画でした。これは我が高では毎年恒例のイベントで、その年は我々がいたずらをする番でした。私達は普段征服を着ているのですが、最後の日だけは特別にしようと思い、みんなでアロハと海水パンツとサンダルで登校しました。しかし校長先生に怒られ、帰宅して着替えてくるよう命じられました。そこで皆で川へ行き、昼からバーベキューをすることにしました。私達が行った川のエリアはとても水がきれいで、皆で日向ぼっこをしたり水遊びをしました。最終的にはそこで一日を過ごし、高校生活最後の日をみんなと楽しく過ごせました。私は今でもあの日を忘れることができなく、たまに日本に残っている同期の友達と川に行きます。自分の成長の中で大きい存在となっていた川はいついっても癒されます。

 

 この川は私にとって想い出の川であるため、いつまで残っていてほしいと心から思っています。想い出の数は星の数ほどあるため、このエッセイでは語りきれません。将来私に子供ができたらその子供をぜひこの川に連れて行きたいです。あの川辺で育つことは将来が約束されるようなものだと私は思います。明るくすくすく育つだめにはやはり良い環境に恵まれなければならないと思います。そんな多摩川を私はいつまで覚えていたいと思っています。

 

多摩川(たまがわ)(英称:Tama River)は、山梨県・東京都・神奈川県を流れる多摩川水系の本流で一級河川。全長138km、流域面積1,240km_。

歴史
治水
多摩川は勾配が急な川で、そのため古くから洪水が絶えず、「あばれ川」として知られていた。特に下流域での被害が大きく、例えば六郷橋が最初に掛けられたのは1600年であるが、洪水によって頻繁に流されたため、また江戸幕府が多摩川を江戸の最終防衛線と位置づけ架橋を制限していたため、1688年から1874年までは橋が掛けられず渡し舟となった。また、氾濫のたびに流路が変わり、それによって村が分断された地区が数多くあり、等々力、丸子など川の両岸に同じ名の地区があるのはそのためである。現在のような流路に近くなったのは1590年の大洪水による、といわれる。
そのため、古くから堤防が築かれたが、堤防はたびたび決壊し、そのたびに水害をもたらしている。本格的な治水事業が始まったのは1918年からの多摩川改修工事で、この工事は1934年まで続けられ、河口から二子橋までが改修された。その後、日野橋までの間の改修が進められ、その後の氾濫は少なくなったが、それでも水害が起こることがあり、近年では1974年の狛江水害が有名である。ドラマ「岸辺のアルバム」は、この狛江水害を元にしたものである。狛江水害の後、2006年現在まで堤防が決壊するなどの被害は発生していないが、台風などの翌日には、河川敷が水に呑みこまれている光景を見ることがある。
1990年からは、さらなる対策として、河口から日野橋までの区間をスーパー堤防(高規格堤防)とする整備事業が進められている。
(ウィキペディアより転載)

 

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