2007年1月7日、強風の吹きつける真冬の快晴の下、私は久しぶりに自転車で多摩川の土手を走った。気持ちが良かった。自宅から自転車で10分、近くには丸子橋が架かり、横須賀線が水色の橋上を走る。川の方に目をやると、美しく光り輝く薄水色の水面に思わず吸い込まれそうになった。ゴミは見当たらない。多摩川は広い川幅の中を、悠々と穏やかに流れていた。そのマイペースな川の流れとは対照的に、土手やグラウンドでは賑やかに人々が活動をしていた。白地のユニフォームを着て仲間と懸命に野球の練習をする小学生たち、そのそばでは男の子がそりで滑って遊び、父親とお祖母さんが嬉しそうに見守っている。土手の上では、かわいらしい白いイヌを散歩させている若い女性や、全身ジャージ姿にスニーカーで必死にジョギングをするおじさん、そして私の様に気持ち良さそうに自転車を走らせる若者たちがいた。多摩川の周りにはいつも様々な人々が集まり、それぞれの思いを満たしている様に見える。地域の中に人々が集い憩う事の出来る自然があるのは有難い事だ。多摩川が地元の人たちに愛されている事を肌で感じ、私は何だか温かく嬉しい気持ちなった。同時にそれは、中学・高校時代に私がよく多摩川を訪れていた事を思い起こさせた。
あの頃、私はよく一人で多摩川に来た。それは、いつも心が塞がっていた時であった。大きな空の下を悠々と流れる多摩川は、私にとって明るく開放的な場所であり、何か心の突破口の様なものを与えてくれる場所であった。中学や高校で繰り返される変化のない日常と、視野の狭い世界に憤りを感じていた私は、大きく開かれた多摩川に本能的に魅了されていたのだ。川に向かって心の中のうっぷんを叫べば、その大河が全てをスッキリと水中に吸い込んでくれる気がした。
それに加えて、昼間に賑やかに人々が活動しているところを横目で見ながら多摩川沿いを自転車で走ると、自分の気分まで盛り上がって元気が沸いてきた。逆に、夜に誰もいない静まりかえった多摩川を訪れると、この瞬間、この世で多摩川と対峙しているのは私一人なのではないだろうかという感覚から胸が高鳴り、不思議な緊張感を与えてくれた。対岸に見える、川崎地区の高層ビル群のまばゆい夜明かりを見ながら、人目を気にせず土手を自転車で疾走するのは実に爽快であり、心中のもやもやとしたものが体を突き抜ける夜風と共に外へ流れ出ていく様であった。また、大学受験の頃には、体力作りと心身のリフレッシュを兼ねてよく多摩川沿いをジョギングした。程良く筋肉を動かして汗を流すと、日頃の勉強疲れが吹っ飛び、受験や将来に対する不安をも拭い去ってくれた。体の新陳代謝を良くすると、心の新陳代謝も良くなる様である。
ICUに入り、多彩な人々と出逢い、様々な地域や国を訪れ、知識と理解を広めた私は、中高生の頃と比べると何万倍も視野が広がった。もう、あの頃の様に自己の狭い視野と周りの世界に憤りを感じる事はないし、塞いだ心の突破口を求めて夜ひとりで多摩川土手を自転車で暴走する様な事はしていない。しかし、多摩川がいつまでも私の心を解放してくれる大切な拠り所である事には変わりない。1月7日の正月明け、久々に多摩川を訪れた私は、そんな当時の懐かしい記憶を呼び起こしていた。
家に帰って祖父母に話を聞くと、彼らは私のまるで知らなかった戦時期の多摩川の様子を教えてくれた。それは今からはとても考えられない多摩川の姿であった。いや、正確に言えば川自体の姿ではなく、川の周囲の姿である。矢口や下丸子に連なる多摩川沿い地域は、京浜工業地帯に象徴される様に、大正時代からさかんに工場が立てられた工業地域であった。戦時期には軍需産業が栄え、三菱重工業などの数々の軍事工場が戦闘機を製造していたという。現在の平穏な多摩川地域が、60年ほど前には日本の戦争を背負って立つ軍需産業地域であったと知り、私は衝撃を受けた。この様にして、軍需品を製造していた多摩川沿いは米軍による爆撃の格好の標的となり、多くの工場が吹き飛ばされた。しかしながら、そうして戦時中の軍事工場が壊滅した分、戦後、跡地の土地利用の転換は早かった様だ。かつての軍事工場の跡地には、キャノンなどの電気工場やマンションなどの住宅が建設されていった。こうして多摩川沿い地域は、工場と住宅が入り混じった、現在の住工混在地域へと移り変わっていくのだ。
土手や野原の利用についても、祖父母は戦時期の興味深い話を語ってくれた。戦争末期に、多摩川の野原は、究極の食料不足を補うために畑として開墾され、さつまいも等の野菜が育てられていたというのだ。祖母は女学校時代に勤労奉仕としてその畑で働いていた時の思い出を語ってくれた。現在子供たちが夢中に野球やサッカーをして遊んでいる多摩川グラウンドが、戦時期には食糧を得るための貴重な畑として利用されていたと知り、正直驚いた。しかし、この様な戦時期における一時的な例外はあるものの、戦前、戦後を通して多摩川が人々の集う憩いの場、リクリエーションの場であった事は変わらない。私の父や叔母も、子供の頃はよく多摩川の野原でドッジボールやキャッチボールをして遊んでいたという。
多摩川のホームページを見ると、多摩川を「知り、利用し、参加しよう」といった構成で、様々な情報を提供してくれる。多摩川を「知る」コーナーでは、多摩川八景などの名所の紹介や、川の歴史、川に生息する動植物の説明がなされている。また、多摩川を「利用する」コーナーでは、サイクリングやバードウォッチングの楽しみ方が掲載され、「水辺の楽校」などの関連施設の紹介がある。最後に「参加する」コーナーでは、多摩川沿いで催される様々なイベントの紹介や、「きれいな川をみんなで作ろう」といった市民参加型の取り組みが紹介されている。例えば毎月、多摩川の各支部を回って行われている「クリーン多摩川大作戦」や、市民の発案による「ゴミ持ち帰り運動」などである。私はこの様に、市民が参加して美しい川をつくっていこうとする活動がとても重要であると思う。地域住民が多摩川の自然から恩恵を受けているのだから、その多摩川の美しい自然を守っていくのも地域住民であるべきだと思う。祖母の話では、20年程前、多摩川は汚水が流れ込み、泡が立ち上がる汚ない川であったそうだ。原因は工場から出る汚水や生活廃水をそのまま川に流していた事にあるという。当時は川の管理・保全に対する規制や取り組みが十分になされていなかったのだ。しかし、昨今の規制強化や市民達の努力で多摩川は本来の美しさを蘇らせようとしている。人々の意識と態度次第で、川は汚れもするし美しくもなる。人々が憩える美しい川を維持するには、我々自身の川に対する責任意識と行動が問われているのだ。
他にもホームページでは、「いい川、やさしい川、安全な川づくり」を目標とした現在進行中の多様な川の保全・管理プロジェクトが紹介されている。特に「安全な川づくり」では、堤防の強化計画や災害復旧作業が説明されているが、私はこれにより、川という自然が時に人の脅威となる事を実感した。人の手によって適切に管理されているからこそ、現在私達は多摩川を憩いの場として安全に利用出来るのだ。
多摩川は世代を超えて、地域の人々に愛される憩いの場であって欲しい。いや、人間にとってだけではない。多摩川には様々な魚が住み、川沿い木々には鳥達が集い、川沿いには花や植物が育っている。多摩川はあらゆる生命体の憩いの場であるのだ。将来、周囲の土地利用が再び変わっていっても、その中心に息づく自然、多摩川だけは、いつまでも変わらず美しく雄大な姿であり続けて欲しい。そして未来の世代にも、私達と同じ様に多摩川の自然の恵みを享受してもらいたい。そのためには、現在の私達市民ひとりひとりが、川づくりに対して出来る事を身近なところから始めるべきであろう。
今度多摩川にゴミが落ちているのを見つけたら、私は拾って帰ろうと思う。
<参考資料>
1. ホームページ「京浜河川事務所 多摩川」
<http://www.keihin.ktr.mlit.go.jp/tama/index.htm>
2. 「大田区ホームページ―大田区における景観の特性―」
<http://www.city.ota.tokyo.jp/naruhodo/kihonkousou/toshikeikan/tokusei/index.html>