「ジョナサン・エドワーズ見聞録」

森本あんり

19. プリンストン

 さて、プリンストンに帰ってきて、この「見聞録」もようやく終局を迎えることができる。二年前に連載を始めた時も、確かプリンストンから書き起こしたように思うからである。

 1757年の9月、三女エスターの夫でプリンストン第2代の学長であったエアロン・バー (Sr.) が亡くなった。2日後に開かれた大学理事会は、全会一致でエドワーズを第3代の学長に推挙した。それに答えて書いた彼の返書が残っているので、ここにそれを大まかにつづめて訳しておこう。

  (ストックブリッジ、10月19日付)
 亡くなられたバー学長の後任に私を指名されたという報せに、少なからず驚いています。お選びくださったことは身に余る光栄ですが、私は自分がこの任務を引き受けることについては大いに疑問をもっています。私どもはノーサンプトンを引き払うについて多大の精神的労苦と経済的損失を被っており、ようやくその傷も癒えて落ち着いたばかりでございます。このうえ大家族を再び移住させるのは忍びがたいものがあります。……
 しかし、これは主たる理由ではありません。本当の理由は二つあります。第一に、私自身の欠けです。私は、憂鬱な気質で、時に気力が失せ、子どもじみた弱さで塞ぎ込むことがあり、特に近年は肉体の弱まりを覚えております。このような時には、人と会話することにも気が進まず、まして複雑な執務と心配りが必要な大学の運営にはまったくふさわしくありません。……私はまた、高等な数学やギリシア古典(私のギリシア語は新約聖書の知識ですので)などといった特定の分野で知識が欠けています。……
 第二に、私の心を長く捕えてきた学問の方法について申し上げなければなりません。私ははじめから、書くことによって学んでまいりました。……とりわけ最近流布している誤謬について、またカルヴァン主義とアルミニウス主義との争論については、すでに何度か書きましたが、いま私が努力を傾注しているのは、『贖いの業の歴史』という大作です。これは、キリスト教神学の全問題を歴史という形式の中に投げ込むという、まったく新しい方法による神学で、イエス・キリストの偉大な贖いの業を神のすべての働きの究極目的として据えようとするものです。その叙述は、永遠の昔に始まり、時間における神の経綸を論じ、そして世界の完成に至るまで続きます。……これに加えて、私は3部からなる『旧新約聖書の調和』という題の書物を仕上げにかかっています。その第1部は、メシアの預言とその成就について、第2部はキリストの福音を予表する旧約の予型について、第3部は旧新約聖書の調和的一致についてです。……
 このようにみずからに与えられている賜物を勘案するに、私は話すことよりも書くことに向いていると思います。バー学長の担われたのと同じ責務を遂行するとなれば、これらの書き物は到底かなわぬことになりますが、私の心は深くそれに捕われておりますので、自分をそのような立場に置こうとする気にはどうしてもなれません。……
彼はそれでも自分の判断を絶対視せず、明けて58年の1月、数人の親しい牧師を招いて客観的・総合的な判断を求め、「どちらの結論が出るにせよそれに従う」ということにした。結局この会合は、「プリンストンゆきは彼の神的任務である」と結論したが、それを聞かされたエドワーズは、人々の面前ながら押さえきれずに涙を流して泣いたという。ストックブリッジでの彼の後任には、本欄でも取り上げたデイヴィッド・ブレイナードの弟ジョンが推薦された。

 こうして文字通り泣く泣く赴任していったプリンストンであるが、ひとたびその任に着くや、彼は持ち前の真剣さですべてのことにあたっていった。彼は、同行した五女のルーシーと今や寡婦となった三女のエスターと共に暮らしていたが、しばらくするとこの娘たちに、「ここへ来る前の懸念は消えて、自分が確かにこのつとめに召されていることを感じる」と述懐している。

 ところで、そのような真剣さが彼の命取りになってゆくのも、またエドワーズらしい悲劇である。折しも天然痘が流行の兆しを見せていた。エドワーズは新しい科学の推進者であったが、まず自分の身に危険を引き受けることなくして他者にそれを勧めることはできないと考え、まだ旅の疲れも癒えやらぬ2月の13日、率先して種痘の接種を受けたのである。当時はまだ牛の生菌を使う原始的な方法で、予防どころかそのまま罹患してしまう危険も高かった。案の定、弱りきった肉体はそれに持ちこたえることができず、エドワーズは高熱を出し、のどの腫脹のために薬も水も飲むことができなくなってしまう。彼は傍らの娘たちに、まだ何も知らずにストックブリッジで転居の準備をしていた妻セアラへの美しい「ことづて」を残し、3月22日、足早にその55年の人生を去って行った。

 この永遠の愛を確信した「ことづて」については、すでに本「見聞録」第11回で紹介した通りである。ちょうどこの少し前、エドワーズ自身の父も亡くなった(89才)ので、セアラはまず義母を見舞い、次いで夫を失ったプリンストンの娘を見舞うつもりでいた。しかし、そのわずかの間に、今度は自分が寡婦となってしまったのである。これら三世代の寡婦は、それぞれ年齢も違うのに、三人とも夫が逝くと、まるで火が消えてゆくように数ヶ月のうちに亡くなっている。ピューリタンの夫婦はつくづく深く結び合わされている、ということであろうか。エスターは父エドワーズと同時に接種を受け、快復したかに見えたが、やはり父の死の16日後、後を追うようにして死に、夫バーの傍らに葬られた。こうして今や孤児となったバー家の2人の幼子は、自身も寡婦となったセアラに引き取られたが、そのセアラも同年9月に亡くなり、これまた夫エドワーズの傍らに葬られた。4人は第2代と第3代の学長夫妻として、プリンストンの「歴代学長墓地区画」(Presidents' Plot) に仲良く並んでいる。その脇に小さく置かれているのは、しばしの間そのセアラに育てられた2人の孤児のうちの一人、後に合衆国副大統領になったエアロン・バー (Jr.) の墓碑である。

 留学を終えて5年ぶりに日本へ向かう日の前日、私はあわただしい日程の合い間をぬって、もう一度エドワーズの墓の前に立った。6月の暑い日であった。強い日差しの照りつける中、私はその墓碑に "Qualis Persona quaeris, Viator" と刻まれてあるのを読んだ。そして、ここが自分の出発点であったことを悟った。

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