「恨」という原理

 森本あんりさんの『アジア神学講義』(創文社、2004)は、勉強になる本でした。「神学」というと、ちょっと特殊な感じがします。けれども、「神学」も大きく変わっています。「神」は普遍的だから、「神学」はその普遍的な神の教えを説くものだ、というような発想はもう通用しなくなっています。それは、欧米から発した「神学」を普遍妥当とみなすことで、すでに欧米中心主義の特殊性を帯びたものになってしまいます。アジアからどのような発信が可能か。それはキリスト教を信じていなくても、十分に示唆に富む問題です。

 著者はアメリカでプロテスタントの神学を学んだ方で、実際に欧米中心的な場の中で、アジア人としてどうあるべきかを模索してきた方ですが、アメリカは人種のルツボですから、それだけに欧米中心主義への反省も進んでいるようです。非欧米的世界からの神学は「文脈化神学」(contextual theology)と名づけられているそうです。

 本書は、必ずしも著者自身の独自の立場を鮮明に出すというわけではありません。最後の結章には、アジアの宗教混淆と二重信仰をどうみるか、というような、日本人にとっても興味深い話題が扱われています。けれども、本論のほうは、アジア系の四人の神学者の説の紹介が主となっています。その中には、日本人の小山晃佑という人もいますが、それよりも、韓国系のアンドルー・パク(Andrew Sung Park)という人の「恨」(ハン)の神学というのが、とても興味を惹かれます。

 「恨」が、韓国でとても重要だということは多少は聞いていました。日本では、「怨」とか「怨念」に通ずるのでしょうが、日本だと、すぐに「水に流す」ことになってしまうのが、とてもそんな簡単に水に流せないように凝縮したのが「恨」だと思います。簡単に解きほぐせない「恨」は、今日のいろいろな問題を考えていく上で、大きなヒントを与えてくれそうです。

 そんなわけで、森本さんに導かれて、パクさんの著書The Wounded Heart of God: The Asian Concept of Han and the Christian Doctrine of Sin (Abingdon Press, 1993) を買ってみました。訳せば、『神の傷ついた心:恨のアジア的概念と罪のキリスト教教義』とでもなるでしょうか。さいわいそれほど厚くなく、英語もまあまあ読めますので、さっそく目を通してみました。以下の紹介は、森本さんの本を参考にしながら、まとめてみます。

 パク自身が恨のかたまりのような人生を歩んでいます。両親は日本植民地時代に生まれ、父親は日本軍に召集されました。戦後、北朝鮮政府にすべてを奪われ、やっと韓国に逃げたけれども、朝鮮戦争でまたプサンまで逃げ、結局アメリカに渡ります。ところが、その直後、両親は交通事故で亡くなりました。

 そのような著者自身の体験をベースに、パクは、従来の「罪」にかわって「恨」の神学を打ちたてようとします。それは神学の「コペルニクス的転回」(p.73)です。「罪」の問題は加害者がいかに救われるかということですが、そうではなくて、被害者を問題にするのが「恨」です。

 「恨」とはどういうことでしょうか。それは、「人の苦悩の深さを述べるのに使われるアジア、特に韓国の言葉」(p.15)ですが、それだけに翻訳困難だといいます。「恨は苦痛の底知れぬ経験である。それには、行動的と非行動的の二面がある。行動的な恨は、攻撃的な情動に近いのに対して、非行動的な恨は黙従する精神に近い。そのうち、非行動的な恨の方が人の経験の中で一般的である」(p.15)。

 パクは、恨をいろいろと定義しようとしています。例えば、「不正な身心的抑圧や、社会的、政治的、経済的、文化的圧迫による心の致命的な傷」(p.10)とされています。第1章では、「恨の定義」をいくつか挙げていますが、実際にはそこに挙げられているのは、定義というよりは、その性格付けのようなものです。

 ・挫折した希望

 ・苦痛の崩壊的な感情

 ・統制を失った感情の放出

 ・うらみプラス辛さ

 ・傷ついた心 「傷というのは、“身体の組織の分離によって惹き起こされた傷害」ですが、「恨は、虐待、搾取、暴力によって惹き起こされた心の組織の分離」(p.20)というのは、比喩的ですが、わかりやすいかもしれません。

 これで大体イメージは捉えられるでしょう。現代にはいたるところに恨があふれています。パクが挙げる具体的ないくつかの例は、森本さんの本(39頁)に紹介されています。

 第2章で、パクは「恨の構造」を分析します(cf.森本、44−47)。

 ・個人の恨・意識的  能動的――復讐への意志

            受動的――あきらめ

 ・個人の恨・無意識的 能動的――つらさ

            受動的――希望のなさ

 ・集団の恨・意識的  能動的――反乱への共同の意志

            受動的――共同的な絶望

 ・集団の恨・無意識的 能動的――人種民族的な怨み

            受動的――人種民族的な嘆きのエトス

 パクはさらに、人間によって破壊された「自然の恨」も挙げています。

 第3章では、「恨の主要なルーツ」を挙げていますが、それは、グローバルな資本主義経済、家父長主義、人種民族や文化的差別であり、個人的心理的な問題よりも、社会的政治経済的な面が重視されていることが知られます。

 以上が一般的な「恨」の概論で、第4章以下は神学的な議論になります。けれども、一般的にも参考になる意見が少なくありません。第4章は「罪と恨の絡み合い」ということで、両者の関係を議論します。罪は抑圧者、恨は被抑圧者のものといっても、両者は絡み合っています。「被抑圧者の恨は、その能動的な形態では抑圧者に対する報復をねらうことがありえ、それはしばしば不正な形態をとる。抑圧者は今度はもっと厳しく不正な方法で反応する。結局、暴力の悪循環が続くことになる」(p.70)。このことは、イスラエルとパレスチナや、9.11以後のアメリカとイスラム過激派のテロを見ていると、まさしくそのとおりです。

 そのように罪と恨は密接に絡み合っているにもかかわらず、これまでの神学は罪のみを取り上げてきた、とパクは批判します。しばしば罪は自己中心性だと定義されるが、「自己中心的なのは、罪の教義そのものだ」(p.73)。なぜならば、それは抑圧される他者のことを考えないのだから。「相互主観的な関係の中で、罪の教義は恨の教義によって、悔い改めの教義は犠牲者の許しの教義によって、信仰によって義とされる教義は愛によって義とされる教義によって、個人的な聖化の教義は社会的な聖化の教義によって、静的な救済の教義は動的な救済の教義によって補完される」(p.73)。

 パクは、原罪の教義を否定します。むしろ、罪は子孫に伝わらないが、恨のほうが伝えられていく(p.80)。

 パクはまた、罪は罪悪(guilt)を招き、恨は恥(shame)をもたらすといいます。「不名誉な恥」(disgrace shame)は、「発達を麻痺させ、社会的に機能障害を起こさせ、精神的な衰弱を招く」(p.83)。ひところベネディクトの『菊と刀』がはやって、「日本は恥の文化で、罪の意識がない」などと、悪いことのようにいわれましたが、どうやらそれはおかしいようです。最近、アメリカ軍のイラクでの拷問が大きく取り上げられましたが、彼らの拷問は、肉体的な苦痛というだけでなく、非拷問者に「不名誉な恥」を与えようとするものでした。まさしく、ベネディクトの「罪の文化、恥の文化」というわけ方は、欧米中心主義者によるアジア蔑視の典型だったわけです。

 したがって、罪の許しは司祭や牧師によって与えられるものではなく、「犠牲者との協同によって生じなければならず、犠牲者の恨による恥を解消することに加害者が加わることを含むものでなければならない」(p.84)。

 ここから、第5章「信仰による正当化されない正当化」で、従来の悔い改めによる許しや、信仰によって正当化とされるという教義を批判します。許しはまず、神よりも犠牲者によって与えられなければなりません。悔い改めは、心だけの問題ではなく、「罪人が不正な世界秩序を変えることに参加することによっておこる」(p.90)。先にも触れたように、著者は、個人的な心の問題だけでなく、社会的な変革を重視します。

 第6章「恨と救済」は、神学的な「救済」の問題を扱います。第7章「神の傷ついた心」は、本書の大明ともなった神学的には中心の章です。全知全能の紙が傷つくはずがない、という説を批判して、「神の恨」ということを説きます。「他者に対して犯した罪は神を傷つける」(p.120)のです。それゆえ、神もまた救済を必要とします。神学的には重要な議論ですが、ここでは略します。第8章「恨――宗教間対話のキーポイント」も略。

 第9章「恨の解決」は、恨をどう解決するかという問題で、大事です。それには、目覚め(awakening)、理解(understanding)、予見(envisagement)、実現(enactiment)の4段階があるといいます。このうち、第3段階は、未来像をどう描くかという雄大な問題を扱います。そこでは、「グロバールな教会共同体」(p.152)こそ目指す目標であるとして、経済・政治・環境などをも含めた理想の教会共同体のあり方を描き出しています。

 以上、簡単に(特に後半)、パクの本を要約してみました。彼は、恨を個人的であるよりは社会的な方向で見、その理想社会は、いわばキリスト教社会主義ともいうべきものです。そうは簡単にいくかな、とは思いますが、マルクス主義の唯物論的社会主義が崩壊した後、ユートピアがまったくなくなってしまうのは寂しい。こういうのがあってもいいと思います。

 ただ、理想社会はともかく、現実問題として、あまりに今日の世界は「恨」に満ちています。小さなレベルでも、子供の社会のイジメや低年齢の凶悪犯罪は、加害者と被害者の問題を浮き彫りにしました。大きなレベルでは、もちろんイラク戦争から、パレスチナ問題、ロシアなどの民族問題など、あまりに「恨」にいろどられた悲惨な状況が多すぎます。しかも、パクがいうように、それはこじれにこじれて、どちらが加害者でどちらが被害者かも分からなくなってしまっています。それでも、それを解きほぐしていかなければなりません。それにはあまり先走るよりも、まず、パクのいう目覚め、理解のレベルで、自分たちがいかに「恨」にとりこめられているか、ということをしっかり認識するところからはじめなければならないだろうと思います。

 「恨」という大きな問題を提起したことによって、パクの議論はキリスト教神学の枠を超えて、今日の問題を考えていく大きなヒントを与えてくれそうです。

2004.9.11

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