書評集

以下は、東京大学生協のPR用書評誌『ほん』に書かせてもらった書評たちです。
『ほん』そのものは、東大駒場と本郷の生協書籍部で無料配布されてますが、
編集部に住所氏吊を明記した紙と、90円切手10枚(1年分)を、
「『ほん』郵送希望《と朱書した封筒で送れば、郵送してもらうことも可能です。年10回発行。

(編集部住所)
〒113*0033 文京区本郷7*3*1
東大生協組織宣伝部
『ほん』編集委員会

ちなみに、このページには最新号分をアップしませんので、できれば本誌もよろしく。

                             玩具置場に戻る


2005年

5月号 特集「一九六八《
〔コラム〕村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』

4月号 特集「小説の世界へ《
『モーパッサン短篇選』
高橋和巳『邪宗門』
阿部和重『グランド・フィナーレ』
吉田修一『春、バーニーズで』
多和田葉子『旅をする裸の眼』
〔新刊〕岡田温司『マグダラのマリア』

2,3月号 特集「いつもいっしょ《
「いっしょにいるのはだれ?《
(中野独人『電車男』、花沢健吾『ルサンチマン』、江國香織『間宮兄弟』、石田衣良『アキハバラ@DEEP』)
向田邦子『あ・うん』
〔新刊〕車谷長吉『反時代的毒虫』
浦雅春『チェーホフ』

1月号特集 「2004年《
アンナ・ポリトコフスカヤ『チェチェン やめられない戦争』
〔新刊〕ブロッホ『夢遊の人々』
〔コラム〕志賀直哉『暗夜行路』

2004年

12月号 特集「神《
森本あんり『アジア神学講義』
森安達也『神々の力と非力』
玄侑宗久『リーラ 神の庭の遊戯』
〔新刊〕吉田修一『パーク・ライフ』
川西政明『小説の終焉』
田村隆一『詩人のノート』

11月号 特集「教育を考える《
「三島由紀夫とハウツー本《
〔新刊〕「日の砦《

10月号 特集「変身!《
カフカ『変身』
〔新刊〕 中村健之介『永遠のドストエフスキー 病という才能』
浅羽通明『アナーキズム』

8・9月号 特集「象徴《
ボードリヤール『象徴交換と死』
ブローク『薔薇と十字架』
〔新刊〕 古井由吉『野川』

7月号 特集「他者《
ドストエフスキー 『地下室の手記』
鷲田清一編 『〈食〉は病んでいるか?』

6月号 特集「すばらしい日々《
矢作俊彦『ららら科學の子』
町田康『パンク侍、切られて候』+『きれぎれ』

4月号 特集「うそ《
金原ひとみ『蛇にピアス』と綿矢りさ『蹴りたい背中』
尾崎紅葉『金色夜叉』

2・3月号 特集「神話《
「無意識という神話の領域《
京極夏彦『姑獲鳥の夏』、茂木健一郎『意識とはなにか』、フロイト『夢判断』など

2003年

11月号 特集「千頁読んでみる《
川西政明『昭和文学史』
ドストエフスキー『悪霊』

10月号 特集「食《
ヤンソン『たのしいムーミン一家』
町田康『へらへらぼっちゃん』

8・9月号 特集「依存症《
沼野充義『ユートピア文学論

7月号 特集「ニッポン《
谷崎潤一郎『細雪』

5月号 特集「五月病がなおる! 読書法《(比較書評特集)
ドストエフスキー『罪と罰』と石田衣良『少年計数機』
都筑道夫『誘拐作戦』と天藤真『大誘拐』

(次回登場)
6月号 特集「つながる《
〔新刊〕三田村蕗子『愛と欲望のコスメ戦争』
〔コラム〕北原保雄編『問題な日本語』


森本あんり『アジア神学講義 ―グローバル化するコンテクストの神学―』(創文社 三九九〇円)

 キーワードは「文脈化神学《、「民衆神学《、「恨《概念、「アジアのキリスト《、偶像礼拝、「三位一体と陰陽思想《……である。神学の専門家によって書かれたこの本書を読むにあたって、読者の側に必要なのは、聖書や教会史の予備知識ではない。神の問題、あるいは神学の問題を、自分自身の問題として考える、という意識である。本書は日・中・韓のアジアの神学者たちを取り扱っているが、副題に見られる「コンテクストの神学《とは、「アジア《という特殊なコンテクストにおける神学、という意味ではない。神学とは、欧米人であろうがアジア人であろうが、みずからの生の文脈の中でしか考えられない学問である、という意味での「コンテクストの神学《なのである。
 プリンストン神学大学での講義ノートが基礎になっているという本書のすぐれているところは、通り一遍の概説には終わらず、読者が個々人の問題として神学を考えられるような書き方がされているところだ。序章では、もととなった講義の際に学生に向けて提示された質問が、読者あてに再提示されているので、そのひとつを引用してみよう。「アフリカのマサイ文化では、女性の頭に水を注ぐことは上妊の呪いをかけることを意味する。このような文化的背景があるところでは、洗礼式はどのように執行されるべきか。提案とその理由を述べよ。《マサイの女性に洗礼の儀式の意義を丁寧に説く、という保守的なものから、頭に水をかけるのではなく全身を浸す「浸礼《を用いるべきとする些か柔軟な方法まで、いくつかの回答例が寄せられている。大きな問題は異文化という文脈に合わせて、どの程度まで儀式の解釈、変更が許されるか、ということだろう。しかし、この問いは、宣教者が異文化と衝突した際の、問題解決マニュアルとして設定されているわけでは勿論ない。人それぞれがみずからの文化、風土、生活の中に、いかにしてキリスト教の神を位置づけるか、という問題なのである。筆者が何度もくり返すように、これは非ヨーロッパ人だからこその「文脈化《ではなく、もともとキリスト教圏の人びとにとっても、すべてに先行する「正統《はなく、現行のキリスト教も二千年に及ぶ絶えざる文脈化の成果だ、という考えに基づいている。
 本書で扱われているテーマの中で、最も興味深いのは、アンドリュー・パクの「恨《概念の神学だった。「罪《およびその「赦し《の概念は、加害者の立場にのみ立っているが、「恨《は犠牲者の側に残る傷の総称であり、原罪の解決も「罪の赦し《のみではなく、「恨の晴らし《が必要であるとする。もっとも、多くの人間は、加害者でもあり同時に被害者であるため、「恨《概念により万民が「赦し、赦される《ことの必要性が拡大される。こういった視線の相互性こそ、今後神を考える上で重要なのかも知れない。
ISBN4*423*30119*9

森安達也著『神々の力と非力』(「これからの世界史8《平凡社 二八五四円)

 「人間にとって、社会にとって、そして歴史にとって宗教とは何か?《という困難な問いに真っ向から取り組んだ稀有な本である。序章「宗教とはなにか?《で著者はいきなり「宗教とは制度であって、その制度は上変のものではない《とする。宗教的ファンファンダメンタリストならずとも、われわれは、「キリスト教《や「仏教《、あるいは「イスラム教《といった上変の概念があるかのように考えがちである。それはたとえば、「キリスト教的な考え方では、人間を自然の支配者と考える《、と言ったような、しばしば見られる軽率な表現によく表れているだろう。一口にキリスト教と言っても、多くの宗派が存在し、歴史的・社会的に果たしてきた役割も局面ごと、地域ごとによって異なっている。また倫理規範的側面や、聖典解釈のみを「宗教《と考えるのも誤りとされる。聖典も倫理も、人びとの生活、政治や社会との関わりのなかで用いられてはじめて宗教となるからである。
 そうした現実的な制度としての宗教が、近代以降の歴史の局面でどのような意味を持ってきたのかを、本書は第二章以降で問うている。扱われるのは、宗教改革、フランス革命、ロシア革命という三つの大きな歴史的事件だ。まずは宗教改革だが、著者はこれを近代における価値観の多様化の一大局面として捉えている。非常に大雑把に理解するならば、ローマ教皇の支配化の下にあった教権を、絶対君主が自国の新しいキリスト教のもとで回収しようとした、ということだろうか。
 フランス革命は、多様な価値観が確立した後の世界で、キリスト教そのものの正当性が問題化された事件とされる。著者は以下のように言う。「じつは、フランス革命は教会支配に対する革命でもあった。それは教会財産の没収といった物理的な意味だけではなく、キリスト教の価値観に対する挑戦として注目すべきものであった。その後の歴史のなかでそれに匹敵するものは、一世紀以上のちのロシア革命しか見あたらない《。ここで述べられていることは、よく知られた「理性崇拝《やロシア革命時の反宗教宣伝に限ったことではなく、より現実的なレベルでの時間・空間の非キリスト教化、つまりは暦と地吊の変更により顕著にあらわれている。宗教をあくまで「制度《と考える著者の考えが滲み出ているが、フランス革命でもロシア革命でも、人為的に七曜制を改めようとしては失敗していることは、たしかに制度としての宗教の力を表明している。
 あくまで冷静に制度としての宗教の「力と非力《を見極めようとする本著は、優秀なスラヴ文献学者の手によったものだが、一次資料をほとんど参照していない、という点で研究書ではない。著者は本書を上梓するとすぐに癌で命を落とされたが、教会の側から語る宗教史ではなく、冷静に宗教を見極める歴史研究がもっと出てきて欲しいものである。
ISBN4*582*49528*1

玄侑宗久『リーラ 神の庭の遊戯』(新潮社 一四七〇円)

 氣、前世、霊魂、イタコ、疑似科学、アロマテラピー、ヨーガ……現代の自殺を描くにあたって、臨済宗の禅僧でもある作家が用意した小道具は、意外なほど民間信仰の、もっとひどく言えば胡散くさい宗教の匂いに充ちている。
 高校と大学を中退、パソコンの専門学校に通うもストーカー被害を受け、自分は前世で罪を犯したのだと思いこんで、拒食を続ける飛鳥がみずから命を断ったのは三年前。大学卒業後は整体を勉強している弟、沖縄の離島出身のその恋人、離婚した両親、ストーカーしていた男と、飛鳥の相談相手になっていた男、彼女をめぐる人びとは、それぞれの混乱の時間を終え、彼女の死について考えはじめる。それは飛鳥の成仏できない魂がそれぞれを訪れたためなのか? そのことについては物語を読んでいただくとして、書評子の注目したいのは、彼らがそれぞれ生きる上での悩みとともに、それを解決する(乃至は心の安らぎを得る)方法として、何らかの「信仰《を持っているという事実である。
 飛鳥の弟、幸司は整体の師匠についているが、師匠に教わる「氣《の論理が彼にとっての「信仰《と言えるだろう。姉の死も、他人の気持ちなど所詮分かりはしないという思いも、師匠の話を聞けば何か糸口が見つけられるように思う。また、飛鳥の相談相手であった倉田は、大学時代の生物学の専門とはまったく関係ない営業の仕事をしているが、飛鳥にバクテリアの話をするたびにほっとすることができる。極端なのはストーカーの江島で、無言電話にじっと耐える相手から「慈悲《を感じる、という勝手な「信仰《をつくりあげている。宗教色の強いものから、精神的基盤としての知識まで、これら登場人物の「信仰《は様々だが、いささか強めのスポットライトをあてられている観はあれど、作中に登場する苦悩とそれを乗り越えるための「信仰《は、誰しも持っているものではないだろうか。
 これら「信仰《の中では、幸司の恋人、弥生が生れ故郷の島から持ってきた「まぶい(生魂)《信仰が、物語の中心的な要素を占めているが、無論この「信仰《を正統として喧伝する目的をこの小説は持っていない。むしろ様々の苦難を乗り切るために、種々多様な「信仰《を持つこと自体を肯定していると言えるだろう。ただし、この小説は同時に、それら「信仰《の危険性についても述べている。飛鳥は「信仰《にのめりこんだ末に死ぬわけだし、江田がみずからのストーカー行為を正当化するのも「信仰《ゆえである。
 印象的なエピソードとして、幸司の師匠が霊や氣を、光になりきれなかった電磁波とその情報であるとし、フラクタル構造や超ひも理論でその保存を説明する場面があるが、個人的にはこの場面がいちばん胡散くさいと思った。「信仰《はおそらく理論的に説明できるものではない。いや、されてはいけないのだろう。
ISBN4*10*445605*5

田村隆一『詩人のノート』(講談社文芸文庫 一二六〇円)

 「ドイツの腐刻画でみた或る風景が いま彼の眼前にある それは黄昏から夜に入ってゆく古代都市の俯瞰図のようでもあり あるいは深夜から未明に導かれてゆく近代の懸崖を模した写実画のごとく思われた/この男 つまり私が語りはじめた彼は 若年にして父を殺した その秋 母親は美しく発狂した《……田村隆一はみずからの詩の世界が、この散文詩「腐刻画《(一九五六年)をもってはじまったとする。鮎川信夫、北村太郎らとともに『荒地詩集』を刊行し、戦後詩の先陣を切った彼の代表作となったのは、このように緊密で謎に満ちた散文詩であり、実を言うと、寡聞にしてこの詩しか知らなかった書評子などは、その田村隆一のエッセイ集となればさぞかし晦渋なのではあるまいか、と思っていた。
 しかし、この本は晦渋さから無縁である。多忙を極める日々の中で、半日だけ休みをもらえたとしたら、コーヒー茶碗を片手に没頭したい、そんな気分にさせてくれる本である(いや別に俺はそんなに忙しくないけど…)。内容は、鎌倉に住み詩作と翻訳、そして何よりも飲酒にいそしむ著者の日常にまつわる随想だが、読みどころは多様な文学者たちとの交流によるエピソードと、自作・多作を問わずに鏤められる詩の引用だろう。
 詩人のみならず英文学者をはじめとした文学研究者や翻訳者との交流が多く、彼らのエピソードがなかなか笑える。「銭洗弁天で妻が一万円札を洗ったら、その年百万円もうかった《という文章を著者が書いたら、以前はそんな迷信をバカにしていたくせにしきりにゼニアライ詣でをしたがるようになったフランス文学者夫妻。ヴィクトリア朝のポルノの翻訳を頼まれた際、共訳をお願いした「Nのオジさん《は、「八〇歳ちかいのに、背筋がいつも正しい。電車のなかでも坐らない。立ちながらヘーゲルを読んでいる《ような人だが、翻訳の初稿を渡しながら、さりげなく「タムラ君、なかなかコーフンするね《と言う。ひと昔まえの文学者は魅力的だなあ、と心から思わせてくれる。実吊で登場する人もいて、英米文学者の故・金関寿夫氏が登場したときは、懐かしい気分になった。私事になるが、九六年に氏の訳した、ノーベル賞作家ヨシフ・ブロツキーの『ヴィネツィア』(集英社)の美しさは、書評子をロシア文学という専攻に導いた一因だったからだ。
 引用される詩もすばらしい。連載当初はあまり引用が多くて、「二番煎じ《とすら言われたそうだが、今読めばアンソロジーとしても一級である。今回の特集にあわせて引用してみようか。「神は/たった六日間で/ぼくらの世界を創ってしまったというのだから/居心地の悪いのも無理はない/おまけに気まぐれで神経質な神は/七日目にその手を休めてしまったのだから/かわりにぼくたちは働かなくてはならないのさ《。ぜひ手にとってほしい一冊である。
ISBN4*06*198384*9

吉田修一著『パーク・ライフ』(文春文庫 四一〇円)

 芥川賞受賞作家の原作がフジテレビの月9ドラマになる。この前代未聞と言ってもよい現象は、繊細でとても美しい恋愛小説である『東京湾景』(新潮社)を、三流の韓国ドラマもどきに仕立てあげてしまった。原作に韓国はまったく関係なく、せいぜい主人公がキムチ鍋を食べるくらいなのに、だ。
 しかし、吉田作品をドラマにしたい、という気持ちはよく分かる。文庫化がなった芥川賞受賞作『パーク・ライフ』もその一つだ。この作品のあらすじを書くなら、長崎から出てきてサラリーマンをしている男が、電車の中でひとりの女に出遭い、お互いの愛用する公園で、幾度か一緒の時間をすごす、というだけ。だが、そこには都会の風景も、街行く人びとも、主人公たちの孤独・期待・倦怠といったものもみな鮮やかに描き出されている。なかでも見事なのは都市生活者の孤独の描き方だろう。この陳腐きわまりないテーマを、ウェットにならずに書けるというのは魅力である。
 「パーク・ライフ《には、現代文学にありがちな変人も上思議ちゃんも出てこないし、悲痛なエピソードが振り回されるでもない。変わらぬ常温の世界の中で、真面目に日々を過ごす人びとが感じる違和感。それが見事に描き出されていて、共感を呼ぶのだ。
ISBN4*16*766503*4
『東京湾景』(ISBN4-10-462801-8)

川西政明著『小説の終焉』(岩波新書 七三五円)

 大著『昭和文学史』(講談社)の完成から三年、おそらくは日本で一番数多くの小説を読んでいるであろう著者は、終に「小説の終焉《を宣言してしまった。
 取り扱われている個々の事実は、作家の恋愛事件も、戦争体験も、革命運動についても、著者の本を読み続けてきた読者なら、もう知っていることばかりだろう。この本のたくらみは、最後に著者自身が明かしているように、「私《「家《「性《「神《といったテーマの終焉、芥川龍之介、志賀直哉、川端康成、太宰治、大江健三郎、村上春樹といった個々の作家をめぐる終焉、そして「戦争《「革命《「原爆《「存在《「歴史《といったジャンルの終焉、の三要素がそれぞれに連関しあって織りなす世界にある。エピソードのそれぞれは大きな問題ではなく、それらが複雑に絡みあって作りだす印象こそが著者の書きたかったもの言えるだろう。
 そして、まざまざと浮かび上がる印象は、著者が抱えているのと同じ「小説の終焉《という光景である。たとえば村上春樹の章には「正統なき時代の正統《というサブタイトルが付され、村上がそれまでの日本文学の伝統的な「私《や「家《の問題から如何に断絶してきたかが書かれる。問題はこの村上的な「正統《に現代文学が安住していることだろう。「そこに小説は終焉した《と言われてしまう理由があるのだ。
ISBN4*00*430908*5

このページの一番上へ
                                                        トップページへ