私の川体験記

 (埼玉県浦和市を流れる見沼代用水)

                                 吉野輝雄

 

1. 私が生まれ育ったのは、埼玉県浦和市三室という農村であった。浦和台地の背後に広大な見沼田圃があって米が生産されていた。昭和26年に三室 小学校に入学したが、ほとんどの生徒は農家の子どもで、私は非農家の子どもと言われていた。なぜそのような環境にあったかと言うと、父が三室農協で働いて おり、私自身小学校4年まで農協の職員住宅に住んでいたからである。

 さて、私がはじめて泳いだのは村外れを流れる見沼(代)用水という川であった。まだ小学校にあがる前(昭和25年/1950年頃)で、近所のあん ちゃん (年上の男友達をこう呼んでいた)とよく泳ぎに行った。あんちゃん達は、抜き手(自由形)で5m位の川幅を泳ぎ切れていたが、私はイヌかきで下流に泳いで は土手に上がって戻って来るといった遊びを繰り返していた。泳ぎ疲れて帰る道すがら、トマトやキュウリ畑を見つけては、こっそりもいで食べたことが今思い 出すとなつかしい(農家の人に断れば、「取って食べな」と言われたが・・・)。

 

2. 近所の小川には、玉網とバケツを持ってよく魚取りに出かけた。水草の下や岩の陰に網を素早く入れてはすくい上げる。これを繰り返しながら小川 沿いに歩いて行く。フナやタナゴがかかれば大喜びし、ドジョウやザリガミであると中程度のうれしさであった。なかなか魚が捕まらないと飽きてきて、カエル を捕まえてはいたずらした(どんなイタズラかは想像に任せる)。夏の炎天下、子どもの足にしてはかなり遠くまで行ったものだった。

 

3. 小学校3年生の頃、突然、川で泳ぐのが禁止された。理由が2つあった。一つは、川に大腸菌が多いという警告が出されたためだ。その頃、バ キュームカーが糞尿を川に捨てていたのを見たことがあった。多分、不法投棄だったと思う。2つ目の理由は、当時からパラチオン(ホリドール)という農薬が 田圃にまかれるようになったためだ。田圃の周りに赤いテープが張られ、近づいてはいけないと厳重に注意された。村でホリドール自殺した人があった。

 

4. 小学校上級になる頃、私は魚つりが好きになった。安い竹製の釣り竿を持って見沼用水や芝川に出かけた。庭で餌のミミズを探してから出かける と、クチボソという魚やフナなどがつれた。釣った魚は庭に池を作って飼っていたが、生命力の強いフナ以外はすぐに死んでしまった。獲物をつかまえた喜びと 同時に命のはかなさをぼんやりと感じていた。

 

5. 見沼用水近くに病院が出来た。浦和市立伝染病院と結核病院であった。病院裏の川沿いに病院から出る排水口があって、汚れた水が流れ出ていた。 皮肉なことにその流れ口の近くの方でよく魚が釣れた。生ゴミを餌にしている魚がいたからだろう。

その中、シッポの曲がったフナが釣れるようになった。気持ちが悪くなって魚釣りをしなくなってしまった。

 

こうして、子どもにとって自然の中の遊び場であった見沼用水やその周辺の田んぼ道から子ども達が遠ざかっていった。昭和30年代の高度成長期に向か う頃 であった。


初めて泳いだ見沼用水(おぶさと橋)    魚釣りをした元結核病院の下          秋の見沼用水  

   
   昔のおぶさと橋               芝川              ホタル        オハグロトンボ

[▲]見沼サイクリング紀行

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