プロジェクト杉田玄白 正式参加作品

 



 



A THEORY OF HUMAN MOTIVATION


A. H. Maslow (1943)

Originally Published in Psychological Review, 50, 370-396.

 

http://psychclassics.yorku.ca/Maslow/motivation.htm

 

Japanese Translation by

Project Sugita Genpaku Members 2011,

The College of Liberal Arts, International Christian University

 

 

 


人間の動機づけ理論(学生訳版)

 

A. H. マズロー著

 

国際基督教大学教養学部 2011プロジェクト杉田玄白参加メンバー訳



本翻訳の最新版は、

http://subsites.icu.ac.jp/people/yushi_inaba/ProjectSugitaGenpaku/Maslow.htmlにあります。


 

 

 

 


I.                  序 論

 

 以前の論 文(13)の中では、権威があると言われるどのような人間のモチベーション理論も含まれるであろうさまざまな主張が提示された。これらの結論は、簡潔に次のように要約することができるだろ う。

 

1.生命体 的欲求の統合された全体はモチベーション理論の礎石の一部であるに違いない。


2.空腹衝動(およびその 他の生理的衝動)は、最終的なモチベーション理論の中心的な要点やモデルではない。いかなる身体に関連する衝動や身体特有の衝動も、人間のモチベーション においては比較的不規則なものであることが示された。


3.モチベーション理論 は、部分的または表面的なものではなく、最終的なあるいは基本的な目的に集中しているべきである。つまり、目的への手段ではなく目的そのものに集中すべき である。目的そのものに集中する事によって、意識的なモチベーションよりも無意識的なモチベーションのほうがより重要な役割を果たすということが示される だろう。


4.1つの目標に対して は、たいてい様々な文化的方針が役に立つ。そのため、モチベーション理論においては、意識的で明確な文化独自の願望というのは、無意識的な目標のように根 本的なものではないのだ。


5.予備行動であろうと完 了行動であろうと、モチベーションに基づくどのような行動も道筋であると理解するべきであり、おそらく多くの基本的欲求は、その道筋を通して同時に表現さ れ満たされるものである。一般的に、行動には複数のモチベーションが存在する。

 

6.実際、 生命体的欲求状態は動機づけられるもの、そして動機づけるものとして解釈される。

 

7.人々の 欲求はそれ自体を優勢のヒエラルキーに配列させる。つまり、通例欲求の出現は既出の欲求の満足に基づくものであり、新しい欲求は更に優勢な欲求である。人 は永続的に欠乏している生きものである。その上、孤立していたり関係のないものであるかのように扱われる欲求や衝動は一つとしてない。すなわち、全ての衝 動は他の衝動の満足又は不満足の状態に関連している。


8.様々な理論的且つ実用 的な理由から、単に数ある衝動を並べるだけでは我々は何も得る事はできない。更に、モチベーションを分類するためには、分類される動機の特異性や一般化の 度合いという問題に対処しなければならない。


9.モチベーションの分類 はそれを引き起こす衝動や動機づけ行動よりはむしろ、目的に基づいて行われなければならない。


10.
モチベーション理論 は動物中心よりはむしろ人間中心であるべきだ。


11
.生命体が反応する状 況や場は考慮されなければならないが、場のみが行動に対する唯一の説明になることはめったにない。更に、場それ自体も生命体という観点から解釈されなけれ ばならない。場の理論はモチベーション理論の代わりになる事はできない。


12
.生命体の結合だけで なく、孤立の可能性、特に、一部分ないしは部分的な反発については考慮する必要がある。それゆえ、違った主張を加えることは必然となっている。

 

13.モチベーション理論は行動理論と同義ではない。モ チベーションは行動を決定する部分にすぎない。同時に行動はほとんどいつも動機づけられており、また、ほぼ常に生物学的に、文化的に、そして文脈によって 決定される。

 

 今回のこの論文はモチベーションに関する実際的な 理論を定式化しようとする試みであり、その理論はこれらの理論的な要求を満足すると同時に経験的かつ臨床的、実測的な、既知の事物にも合致するだろう。し かしそのほとんどは臨床経験から 直接得られるものである。私が思うに、この理論はジェームズとデューイの機能主義的伝統にあり、また、ヴェルトハイマー(19)、ゴールドシュタイン(6)、そしてゲシュタ ルト心理学からの全体論、フロイト(4)とアドラー(10)の 態勢論と融合している。この融合あるいは統合は一般的に「一般動学理論」と呼ばれている。
 モチベーション理論の様々な面を認識したり批判したりすることはそれらを修正することよりはるかに容易だ。ほとんどの場合これは、この分 野における信頼できるデータの深刻な欠如に起因している。この信頼できるデータの欠如は第一に権威あるモチベーション理論がないためだと私は考える。今回 の理論は、そのため、将来の研究へのフレームワークあるいは構想例と考えられるべきであり、この理論が有用かそうでないかは入手可能な事実や提示されてい る証拠によって判断されるよりむしろ、将来なされる研究やこの論文の中で提起される疑問にきっかけを得るかもしれない研究によって判断されるべきである。

 

II.         基 本的欲求

 

「生理的」欲求-- モチベーション理論の出発点として通常取り上げられ るこの欲求は、いわゆる生理的衝動である。2つの新しい研究の系列は、これらの欲求に関して私たち の習慣的な考えを変えることを必要とさせている。1つ目は、ホメオスタシスの概念の発達であり、2つ目は、食欲(食べ物の間で優先される選択)が体内における実際の欲求もしくは欠乏をかなり効率的に指示し ているものであるということの発見である。

 

ホメオスタシスとは生体において、その血流を一定か つ正常な状態に保つ働きのことを意味する。カンノン氏(2)はその過程を以下のケースごとに説明した。

1)血液の水分含有量 2)塩類含有量 3)糖含量  4)タンパク質含有量 5)脂肪含量 6)カルシウム含有量 7)酸素含有量 8)酸素イオンの一定水準 (酸塩基平衡)9)血液の定温 

当然、上記のリストは他の鉱物・ホルモン・ビタミン 等に及んで拡大することが出来る。

 

最新の論文(21)で ヤング氏は食欲と身体的欲求に関する研究を要約した。もし身体がある化学物質を欠乏した場合、個人はその物質を求めて特有の食欲または一時的な空腹を起こ しやすくなる。

したがって記述の詳細具合によって、根本的な生理的 欲求はいくらでも挙げることが出来てしまうため、それらのリストを作ることは無意味なだけでなく不可能のように思える。私たちは全ての生理的欲求をホメオ スタシスとして認めることが出来ない。ホメオスタシス的である性的な欲求や眠気、純粋な活動と母性的な行いはまだ証明されていないのである。さらに、その リストは、生理学的そして動機づけられた行動の目的になりうる多様な感覚的な満足感(味、匂い、くすぐったさ、触感)を含まないであろう。

 

既出の論文(13)で 示したように生理的な衝動、欲求は孤立し、身体に集中している点から典型的なものとは異質であると考えられている。つまり、生理的な衝動、欲求は他の有機 体としてのモチベーションにお互いに依存しておらず、また、多くの場合、衝動は身体に集まっており、基礎となっていると証明する事ができる。これは思考よ りは一般的ではないが(例外として疲れ、眠気、母性本能)、飢え、性、のどの渇きなどの古典的な例からいえる。

 

ここで再び指摘されるべきなのは、全ての生理的欲求 および、それらに伴う完了行動はあらゆる種類の他の欲求への経路を務めるという点である。つまり、お腹が空いたと思っている人 は、ビタミンや蛋白質よりも実際は、慰めや依存を求めているということも有り得る。反対に、水を飲んだり、煙草を吸ったりするというような他の行動で食欲 をある程度満たすことは可能である。言い換えれば、生理的欲求は比較的孤立しているが、完全に孤立しているわけではない。

 

これらの生理的欲求が最優先なのは明らかである。こ の意味はすなわち、極端な形で人生における全てを失った人の主要なモチベーションは、他のどの欲求よりも生理的欲求にある傾向のようだ。食事、安全、愛、 そして名声に欠如している人はおそらく他のどれよりも食事に対する飢えが強いだろう。

 

もし全ての欲求が満たされていないなら、その有機体 は生理的欲求に支配され、他の全ての欲求は単に存在しなくなるか、後方に押しやられるだろう。そうすると、ほとんど全ての意識が空腹に占められ、その有機 体全体が単に空腹であると分類することが妥当となる。全ての能力は空腹を満たすために機能し、これらの能力の組織体は、ほぼ全て空腹を満たすという一つの 目的に定められる。受容器と効果器、知性、記憶、体質、すべてが今では単純に空腹を満たす道具として定められるだろう。この目的に役立たない能力は休止状 態となるか、後方に押しやられる。詩を書こうとする衝動や、車を所有したいという願望、アメリカの歴史への興味、新しい靴への欲望は、極端な場合、忘れら れるか、または重要度が低くなる。究極に、恐ろしいほど空腹な人間にとって、食べもの以外への興味は存在しない。彼は食べ物の夢を見て、食べ物を忘れられ ず、食べ物について考え、食べ物にだけ感情を表し、食べ物だけを感知し、食べ物だけを欲する。(生理的欲求を)取り除くという不適切な目標において、食べ ることや飲むこと、性的行動をまとめる生理的な衝動を普段ならば緩和させる比較的巧妙な決定要素は、今回私たちに(今回に限るものの)こう話させるほど、 絶対的に純粋な空腹の衝動や行動によって圧倒されるだろう。

 

 人間のもう一つの特異な特性は、ある特定の欲求に かられたとき、将来の考え方全体が変わって しまう傾向がある点である。慢性的かつ極度に飢えた人間にとってユートピアは食糧が豊富にある場所だと非常にシンプルに定義づけられるだろう。その人はよ くこう考えるようになる。残り 一生分の食料が保障されさえすれば、すっかり満足できるだろうし、それ以上何も欲しがらなく なるだろう、と。人生そのものが食べるという行為で定義づけられる傾向にある。食べること以 外は取るに足らないものとみなされるのだ。自由、愛、共同体意識、敬意、哲学では腹は満たされないため、これらはどれも役に立たない不要物として払いのけ られるだろう。このような人 は、いわばパンのみに生くる者と呼ばれるであろう。


 そのような事柄が真実で あることを否定することはできないが、それらの一般性は否定できる。 危機的事態は、定義の上ではほとんど、通常の機能的で幸福な社会ではめったに起きない。この 自明の理が忘れられるのには、主に二つの理由がある。第一に、ネズミは生理的欲求のほかにわずかなモチベーションしか持たず、そしてモチベーションの研究 の多くがこれらの動物を対象になされていることから、人間にネズミの構図をあてはめることは容易である。第二に、文化そのものが適応性のある手段であり、 その主な機能の一つが生理的緊急事態の程度と頻度を少なくする ことだということがほとんど認識されていない。名の知れた社会のほとんどで、慢性的な極限の 飢餓という緊急事態は、一般的ではなく珍しい事態である。とにかく、これは未だアメリカにおいては真実である。平均的なアメリカの市民は、「おなかがすい た」という時は、飢えよりも食 欲を感じている。彼は生死に関わるような飢えを、人生でほとんど経験しないか、したとしても 偶然によるものである。


“高次の”モチベーション を不明瞭にし、また人間の能力や性質に関する偏った見方を得るよい方法 は、当然のごとく、極端に、そして慢性的に生命体を飢えさせるか渇望させることである。 極端 な生理的欠乏状態で、緊急事態をありがちな事態にしようと試み、人間の目標や願望の全てを自 分の行動によって測ろうとする人は多くの事柄に対して盲目である。人間はパンがないときにパン だけで生きるのは全くの真実である。しかし十分なパンがあり、また腹が絶えず満たされている とき、いったい人間の欲求はどうなるのだろうか。


 同時に他の(または高次)欲求が現れ、生理的欲求より、他の欲求が生命体を支配するので ある。同様に、それらの他の(または高次)欲求が満たされたとき、また新たな(もしくはより高 次)欲求が現れる。これはつまり、人間の基本的欲求 は相対的優位性の階層制度によって組織づけられているということである。

 

 この言い回しの1つの主な含意は、欲求階層説において、欲求の充足が欲求の欠乏と同程度に重要な概念になることであり、なぜ ならばそれはより相対的な生理的欲求の優位性から生命体を開放し、それによって他の社会的目的の出現を許可するからである。生理的欲求はそれぞれの目的 と共に慢性的に充足された時、活発な、行動の決定要素や形成するモノとして存在しなくなる。 それらは今感覚の中に潜在的な形のみで存在しているという意味では、それらが阻まれたとき、再度生命体を支配するものとして出現する。しかし満たされた欲 求はもはや欲求ではない。生命体は満たされていない欲求にのみ支配され、行動を形成させられるのである。欲求が満たされた ら、欲求は個体における原動力において、重要ではなくなるのである。

 

後ほど十分 なまでに議論された仮説によってこの陳述は認定された。すなわち、ある特定の欲求 が満たされた人間は、今後その欲求が失われるのを我慢する力を身につけられるのである。さらに、ある程度の欲求を今まで一度茂喪失ことのない人間よりも、 過去にその欲求を喪失したことのある人間の方が現在満たされたその欲求に対して異なった(大きな)反応をする。


 安全への欲求―生理的欲求が比較的ある程度満たされたら、そこに また新たな欲求、我々が安全への欲求と して大まかに区別するものが現れてくるのである。生理的欲求は、安全への欲求より程度が低いものの、同じく事実であると言える。生命体も生理的欲求と同様 に、例外なく安全へ の欲求に支配される。この欲求は、大体が排他的なまとめ役として働き、生命体の全ての能力を収集する。そのとき、全ての生命体は安全性を求めるメカニズム として説明できる。そしてまた、知性の受容器・実行器やその他の能力が、本来安全性を求めるための道具であると言えるであろう。また、前述したように、空 腹状態の人間の場合の主な目標は、彼の現時の世界観や人生観だけでなく、将来の人生観が強い決定要因となることがわかるのである。実際は、全てのものは、 安全より重要ではないように見え、満たされた生理的欲求でさえ時々過小評価されるのである。極端に、そして慢性的に言ってしまえば、この状況の人間は、ほ ぼ安全性のみに生活するとみなされるであろう。


 この論文で、私たちは主 として大人の欲求に関心があるが、幼児や子供たちの遥かにより単純で 明らか欲求の観察によって、おそらくより効果的に、大人の安全の欲求の理解に臨むことができる。幼児たちの危険や脅威への反応がはっきりと見える理由の一 つは、彼らが危険や脅威への反応を全く抑制しないということである。一方で大人たちは、社会の中で、それをいかなる犠牲を払ってでも抑制しなさいと教えら れてきた。よって、大人たちは自らの安全性に危険を感じても、その反応を抑制するため、表面上その反応を見ることは難しい。幼児は母親の乱暴な扱いや、基 本的な支援の欠落、または不十分な支えによる急な障害や落下、騒音、発光、や非常な刺激に対して、あたかも自分が存続の危機に瀕しているかのように全力で 反応する。[1]

 

また、我々 ははるかに多様な肉体的病気による直接的な反応を幼児に見ることができる。時には これらの病気はただちに、それ自体で脅迫的に思え、子供に危険を感じさせる。例えば、嘔吐、 幼児疝痛もしくはその他の鋭い痛みは子供に世界全体を違ったように見せる。以下を前提としていってみるならば、瞬間的な痛みを感じた時、子供にとって、い わば世界全体の容貌は突然陽気から邪悪に変わり、とにかく何もかもが起こりえるような、以前は安定した物が突然不安定なものになる場所になる。このよう に、悪い食べ物などによって病気になった子供は、1日か2日 の間、病気にかかるまで彼自身の中に見たことのなかった恐怖や悪夢、そして保護や安心に対する欲求を発現させるのである。

 

 子どもが安全を必要としていることを示すもうひと つのサインは、ある種の崩壊していない決まった手順、あるいは周期的運動に対する子どもの好みである。子どもは予測できる整然とした世界を欲しているよう だ。例えば、親の不当な処置や、不公平さ、無節操は子どもに不安や危険を感じさせるようである。この態度はおそらく、不当な処置そのものや、そのほか特定 の巻き込まれた苦しみによるものというよりも、むしろこの待遇が世界を信頼できないものや、安全でないもの、もしくは予測できないものに見せてしまうおそ れがあるから出てくるものであろう。幼い子どもは少なくとも厳格な骨格の外形をもつ体制のもとで力強く成長するようだが、その体制には同じ性質をもった予 定や、ある種の決まった手順や、現在だけでなく、遠い未来まで頼れるなにかがある。おそらくこのことは、子どもが組織立っていなかったり、体系化されてい なかったりする世界よりもむしろ、組織立った世界を必要としていると言うことでより正確に表現することができるであろう。

 

両親や一般 的な家庭の仕組みの中心的役割は明白である。家庭内での口論、身体的暴行、別居、離婚、または家族の死などはとりわけ恐ろしいだろう。また、子供を名前で 呼ぶ、厳しく話す、揺さぶる、乱暴に扱う、または実際の肉体的な罰など、親の怒りの爆発や子供に直接向けられた罰の脅威などは、時に、単なる肉体的苦痛以 上に私たちが想定しなければいけない、子供の中で完全なパニックや恐怖を引き出す。確かに、ある子供たちの中でこの恐怖は親の愛を失うことに対しての恐れ を象徴するかもしれないが、同時に、愛してほしいという願望が原因ではなく真の安全や保護のために嫌いな親にしがみつくように見られる、完全に拒絶された 子供たちの中でもそれは生じえるのである。

 

例えば、迷 子になることや、少しの時間親から引き離されること、新しい人、新しい状況や新しい仕事、奇妙な光景、見知らぬもしくは手に負えない物体、病気や死に直面 することと同じように、普通の子どもに新しく、未知で、手のほどこしようがない刺激や状況と直面させることは、危険や恐怖の反応をたびたび誘い出すだろ う。特にそのような時において、子どもが大慌てで親にぴったりとくっつくことは、(食べ物を与える人や愛を与える人としての役割とはかなり違った)保護者 としての親の役割をよく表している証拠である。

 これらや類似 した観察結果から、社会の一般的な子供たちが、信頼のおける、そして予期せぬ出来事や管理不能な出来事、彼らの手に負えないような出来事、もしくはその他 の危険な出来事が起こらない世界、さらにはどんな状況においてもそういった危険から自分たちを守ってくれる全能の両親が存在する世界、また安全で秩序正し く、予測することが可能であり、組織された世界を好んでいるということを一般に述べることができるであろう。

 これらの反応 が子供たちから容易に観察されうるということは、私たちの社会において子供たちが安全ではないと感じている(言 い換えれば、悪く育てられている)事実を証明する1つ の方法である。威圧的でない、愛のある家族の中で育てられた子供たちは上記のようには反応しないのである(17)。 そのような子供たちにおいて、危険な反応というのは、主に大人たちが危険 だと考えすぎる状況や対象になりがちなのである。[2]

 私たちの文化社会で心身ともに健 康で幸せに暮らす人は、自身の安全への欲求においては概して満足している。平和で順調に機能している‘良い’社会では、人々は通常、野生動物、極端な気 温、犯罪者や殺人、暴行などの脅威に対して十分安全であると感じている。それゆえ、本質的に、人はもはや能動的な動機づけとしての安全への欲求を持ってい ない。おなかいっぱいの人が全く空腹感を感じないように、安全な人が全く危険を感じないの である。もしも私たちがこれらの欲求を直接的またははっきりと目にしたいのであれば、神経質またはそれに近い人、もしくは経済的社会的な弱者に変わらなけ ればならない。私たちは、極端な現象の時、例えば一般的な終身在職権と保護のある会社を好んで選ぶ時、お金を貯めたいとき、さまざまな類(医療、歯科、解 雇、不自由、老後)の保険をかけるときなどにおいて、安全への欲求を感知することができる。 

 社会で安全と安定を得ようとする 試みの広い側面をみると、見覚えがないことより見覚えのあることを、もしくは未知ことより既知のことを好む、という点が共通して見られる。世界やそこに住 む人間を、何かしら満足のいくまとまった意味のある全体としてまとめる宗教や世界的な哲学を持つ傾向も、安全への欲求に よってある程度引き起こされている。ここでも、一般に科学や哲学は安全性の欲求によってある程度引き起こされている。(科学や哲学、宗教的への尽力の他の 誘因も後でみる。)

 しかし、安全への欲求は、たとえ ば、戦争、病気、大規模自然災害、犯罪急増、社会の崩壊、神経症、脳損傷、困難が続く状態のときといった緊急事態にだけ生命体の資源を積極的かつ支配的に 動員するものとしてみることができる。

 我々の社会の神経過敏な大人たち は、多くの面において、安全性を欲する安全でない子どもたちのようであるが、前者に関しては少々特殊な様子が見られる。彼らの反応は、しばしば敵意や圧倒 感、脅威が感じられる世界における未知の、心理的な危機に向けられる。そのような人間はあたかもほぼ常に大惨事が差し迫っている かのように振る舞う。言いかえれば、彼らは常に緊急事態があるかのように反応しているのである。彼らの安全には庇護者を探求するための特異的発現、または 彼らが依存することのできる強者、或いはことによれば、指導者を探すことが大抵必要である。

 神経過敏な人は、世の中に対して 大人げない態度をとっている成人についての有効性とともにいささか異なる方法で叙述される。すなわち神経過敏な大人は実際に、叩かれることや、母親の非難 や、両親によって見捨てられることや、食べ物を取り上げられることを怖がる行動をするであろうといわれている。それはまるで、危険な世界への恐怖や威嚇に よる子どもじみた態度は隠され、成長や学習過程により影響を受けず、子供に危険にさらされていることや脅かされていることを感じさせる刺激によって呼び出 される用意が意識の下でされているようだ。[3]

安全の欲求は衝動強迫神経症で最も具体化される。衝 動強迫神経症患者は、手に負えない、予期しない、または未だないような危険が現れないように死ぬ物狂いで世界を整理し安定させようとする(14)。彼らは、すべての起こりうる出来事に対して備え、また新たな不慮の出来事が生じないように、彼ら自 身をあらゆる儀典や規則、信条で束縛する。彼らは、自身の心の均衡を保つために、親しみの無いものや、なじみの薄いすべてのものを避け、彼らの制限された 世界をきれいで統制のとれた規律正しい形状にする。そうすることによって、世界で起こるすべてのものが、彼らの期待通りとなるのである。これらは、ゴール ドシュタイン(6)が説明する脳が損傷した人のケースによく似ている。彼らは何とか予期しない(危 険な)ことが起きないように世界を整理しようとする。もし、彼ら自身の責任ではなくとも、何か予期しないことが起きると、彼らはまるでその出来事が重大な 危険をもたらしたかのように、パニック状態に陥る。私たちが、正常な人が親しみのあるものを好むというごく当たり前のことが、彼らにとっては、生死をかけ た避けることができない問題になることもある。


 社会的欲求-- もし生理的欲求と安全欲求の両方が適切に満たされて いると、次に社会的、愛情、所属欲求が現れ、すでに表されている欲求のサイクル全体がこの新しい中心と共に繰り返されるのである。そうして人は友人、愛 人、妻、子どもの不在をかつてないほど強く感じるのである。彼は、一般大衆や、仲間の中での深い愛情関係に飢え、その愛情を手に入れるために、多大な努力 をする。彼は愛情を得ることを世界中の何よりも求め、かつて彼が飢えていた時には愛を嘲笑っていたことも忘れてしまうこともある。

 

 私たちの社会において、これら社会的欲求が妨げら れている状態は、不適応やより深刻な精神病理学の事例の中核に、最も頻繁に見受けられる。愛や愛情、またそれらの性的な欲求の現れは、一般的に両面性を 伴っており、そして習慣的に数多くの制限や抑制がある。実際、全ての精神病理学者は、社会的欲求の未達成が不適応の状態の根底にあると強調してきた。よっ て、多くの臨床研究はこの社会的欲求で構成されていて、私たちはもしかするとその欲求について、生理的欲求以外その他すべての欲求についてより、知ってい るかもしれない(14)

 

 この時点で強調されるべき1つのポイントは、愛と セックスは同義ではないということである。セックスは純粋に生理的欲求として研究されてきているだろう。たいていの性的な行動は複数の要因で決まる。すな わち、性的な要因だけではなく、主に社会的欲求や愛情欲求といった他の欲求によって決まるのである。また見落としてはならないのは、社会的欲求は、愛を与 え、与えられることの両方が必要であるという事実である。[4]

 

 自尊欲求― 私たちの社会のすべての人(わずかな病的な例外はあるが)は、安定し、しっかりとした基盤の、(一般的に)自分自身の高い評価、自敬、自尊、また 他者からの尊重に対する欲求や願望を抱いている。自尊心のしっかりとした基盤は、実際の能力、業績、他者からの尊敬に基づいている。これらの欲求は二つの 副次的なグループに分けることができるだろう。第一に、これらは強さ、実績、充実感、世間への自信、そして、自立と自由への願望である。[5] 次に、私たちは、評価や名声(他者からの尊敬や評価と定義される)、認められること、注目されるこ と、重要であることや正しく評価されることへの願望と呼ばれるようなものを持っている。[6] こ れらの欲求はアルフレッド=アドラーやその支持者によって強く主張されたが、フロイトや精神分析学者により軽視されてきた。しかし今日では、それらの重要 性は徐々に広範囲に認められてきたようだ。

 

 自尊欲求の実現は、自信と価値、力、能力、そして 世界で役立ち必要とされているという気持ちに繋がる。しかし、この欲求が妨げられると、劣等感、弱さ、そして無力な気持ちが生じるのである。これらは人を 落胆、償い、もくしは神経質にさせる。重度の外傷神経症の研究より、自信の必要性の評価や、自信がないときの人間の無力感への理解を簡単に知る事ができる(8)[7]

 

 自己実現欲求―たとえこれまでのすべての欲求が満たされたとして も、その個人がそれぞれに適したことをしなければ、私たちはまだしばしば(もしくは常に)新たな不安や動揺がすぐにまた発生するだろうと予想される。その 人が究極的に幸せになるとしたら、音楽家は曲をつくらなければならないし、芸術家は絵を描かなければならないし、詩人は詩を書かなければならない。人がで きる事はしなければならないのである。この欲求は自己実現欲求と呼ばれる。

 

 クルト=ゴールドシュタインによって初めて用いら れたこの言葉は、この論文においては、より限定的に使われる。それはすなわち、個人の潜在的な可能性を実現させる自己実現の願望である。この傾向は、個人 がなることができる全てのものになるための願望として表現される。

 

 これらの欲求の特定の形態はもちろん人によって大 いに異なる。ある人は、理想の母親になりたいという願望となって現れ、また一方で身体行動的に表すことで、さらには絵を描く事や発明によって表される場合 もある。これらは必ずしも創作欲というわけではないが、創作能力がある人はこれらの形態を取ってきた。

 

 自己実現欲求の明確な出現は生理的、安全、社会 的、自尊欲求の実現を基盤としている。我々はこれを実現している人々を一般的に満足している人と呼んでおり、その実現から我々は最大限(そして健全な)の 独創性を期待している。[8] しかし、私たちの社会では基本的に実現している人は例外として扱 われる為、自己実現が経験によってなのか臨床上なのかが定かではない。それがゆえに、困難な研究課題としてとどまっている。

 

 基本的欲求の前提条件とは ―−基本的欲求達成には不可欠な直結した条件がある。こ れらの条件は危機に晒されると、よもや基本的欲求達成それ自身が危機に晒されたかのような反応をみせる。そういった条件とは、言論の自由、他者に危害を与 えない行動範囲で自分の行動欲求が達成できる自由、自己表現の自由、知識を精査し探求する自由、自己防衛の 自由、正義や公平性や尊厳を集団の中で秩序立ったものにする自由などが、基本的欲求達成の前提条件の例として挙げることができる。こういった自由は妨害さ れると、危機的なあるいは緊急事態と認識して反応を見せる。こうした条件はそれ自体が目的ではないのだが、それらが明らかに、それ自体が一つの目的となり 得る基本的欲求とよほど関連が深いために、ほぼそれ自体が目的であるかのように捉えられる。こうした条件は守られている。なぜなら、こうした条件が守られ なければ基本的欲求の達成はおよそ不可能だからである。あるいはかなり深刻な危険に晒されることになるからである。

 

 知覚し、情報を集め,学ぶといった認知能力は、我 々の基本的欲求を満たす他の機能との一連の適応手段であると考えれば、危険やその自由を奪ったり妨害したりするいかなるものも、必ず基本的欲求を間接的に 脅かすことは明らかである。この意見は、一般的な好奇心に関する問題、そして知識や真実・英知の探求、無数に存在する謎を解き明かしたい、という永続的な 本能を解決する方法の一つである。

 

 我々はすでに、意識的な欲求(部分的目標)が、多 かれ少なかれ、基本的欲求に近似しているものであるように、どんな意識的な欲求も重要であると指摘してきた。したがって、我々は他の仮設を用いて、基本的 欲求との近似度がどれほどなのかということを述べなければならない。また、同様の言説は、さまざまな行動においてもいえることだろう。意識的な欲求が、直 接的に基本的欲求の達成に貢献するといえるならば、直接行為とは心理学的に価値のあるものである。動的な心理学観点からみると、その貢献が直接的ではな い、もしくは貢献度が低いほど、この行為の価値が低いと考えられる。同様の言説は、さまざまな防御メカニズムおよび対処メカニズムのためにもたらされるで あろう。いくつかは、基本的欲求の保護または実現と非常に直接的に関係があり、他はただ弱く、離れて関連づけられるのである。実際、我々はより基本的な防 御メカニズムとあまり基本的でない防御メカニズムについて話すことができ、そして、より基本的な防御に対する危険は、あまり基本的でない防御(単に基本的 欲求とのそれらの関係のためであることを常に覚えておくこと)に対する危険よりも、より脅威的であるといえるだろう。

 

知る ことと理解することへの願望 −この時点では、われわれは認知的必要性について少し しか言及していない。知識を得て全世界を組織化することは、ある程度、世界における基本的安全を得るための、または知能の高い人になるための技術、また自 己実現の表現のための技術としてみなされてきた。また、自由に質問し、表現するということは基本的欲求を満たす前提条件として話し合われてきた。これらの 記述は正しいかもしれないが、好奇心、学び、哲学的思考、実験などのモチベーションの役割に対する質問の答えにはなっていない。不完全な答えにすぎない。

 

この質問は 我々が事実についてほとんど知らないがために、特に難解である。好奇心、探索、事実への願望、知ることへの願望は容易にみてとれるだろう。それらがしばし ば、個人の安全を危険にさらしてでも追求されるという事実は、我々の先の議論の部分的特質を示している。更に、彼は知ることへの願望が知識人にとって非常 に強力な衝動であるということを前提とするのに十分な臨床的証拠を持っているのだが、筆者は知識人ではない人々に関するデータが入手できないと認めざるを 得ない。したがって、それは概して比較的高次の知能の機能であるかもしれない。非常に暫定的に、そして大いに議論と研究が活発化することを期待して、知る こと、現実を認識すること、事実を得ること、好奇心を満たすこと、またはヴェルトハイマーが述べるように盲目になるのではなくあえて見る、といった基本的 願望を我々は前提とするべきである。

 

しかしなが ら、この前提は十分ではない。我々は知識を得た後でさえ、更に詳細な知識を手に入れたいという欲求に駆られる一方で、哲学や宗教といった、更に広範な知識 への欲求にも突き動かされる。我々が得た事実は、その事実が単独的であろうと、複合的であろうと、必ず理論化され、分析、体系化のいずれか一方、若しくは 両方がなされる。この過程は「意味づけ」への追求と表されてきた。我々は理解や分類、体系化、関係性と意味の追求への願望を前提とするのである。

一度このような欲求が 議論として受け入れられると、我々はそれら自身を理解することへの願望よりも知ることへの願望が先行している小さな階層構造に形作るようだ。私たちがこれ までに述べてきた優性遺伝の階層構造における全ての特徴は同じようにこのために保持しているように見受けられる。

我々は自身の持つ、こ れらの願望を上述の基本的欲求から引き離すあまりにも安直な傾向、すなわち”認識的”欲求”と”動能的欲求”とをはっきりと二分する傾向に、注意しなけれ ばならない。知ることと理解することへの願望はそれ自体が動能的である。すなわち、すでに我々が論じたような種類の、希求する性質を備え、基本的欲求と同 等に自分を満足させるための欲求である(19)

 

V.基本的欲求 のさらなる特徴

基本 的欲求の階層性の定着度 − 我々は 今までこの階層性があたかも定着した順序の用に話してきたが実際は暗示したほど厳格なものではない。我々が研究してきたほとんどの人々が、このように示さ れてきた順序の基礎欲求を持っているように見えたのは事実だ。しかし、例外も多数あった。

 

(1) 中には自尊心の方が愛情よりも重要であるように見え る人達がいる。この一番有りがちな階層の逆転は大抵、最も愛されやすい人が強くて有力者であり、尊敬や怖れの念を引き起こし、自信家で積極的だという観念 の発達があるからだ。したがって、愛情がなく、かつそれを求めている人が積極的で自信をもった行動を示す場合がある。しかし彼らは基本的に高い自尊心とそ の行動の表現を手段よりも目的として求める。彼らは自尊心そのものではなく、愛の為に自己主張を求めるのである。

 

(2) 他にも、明らかに先天的に創造性を持っていて、創造 への衝動が他のいかなる決定因子よりも重要であるように思える人々がいる。彼らの創造性は、基本的欲求の満足感によって表される自己実現ではなく、基本的 欲求の満足感が欠如しているのにもかかわらず、自己実現に見えるのかもしれない。

 

(3) ある特定の人々の中では向上心のレベルが永久に失わ れている、もしくは低くなっているかもしれない。つまり、低次の目標は失われて永久に消えてしまう可能性がある。例えば、長期的な失業状態のような非常に 低レベルの人生を送った者は必要なだけの食糧でも残りの人生を満足し続けることが出来るかもしれない。

 

(4)社会的欲求を永久に失うもう一つの例は、いわゆる 「精神病質者」である。使用できる最適なデータ(9)によると、そのような人は生まれてからの数ヶ 月の間に愛情に飢えてしまい、単純に、愛情を注ぐ・受けるという望みと能力を永遠に失ってしまうのである(まるで動物が生まれてから一定期間の間に吸う・ つつくという動作を実践できないと、それらの反射神経的動作を失ってしまうように)。

 

(5) 階層の逆転の別の原因は、ある欲求が長期間満たされ たときに、この欲求が過小評価されるかもしれないということである。例えば、長期的な空腹状態を経験したことのない人は、生理的欲求を軽視する傾向にあ り、食糧を比較的重要でないものとみなす。もしも、彼らの欲求が高次の欲求に独占されているのであれば、高次の欲求が彼らにとって全ての欲求の中で最も重 要な欲求に見えるのである。つまり、高次の欲求を満たすためにより基本的な低次の欲求を満たすことのできない立場になり得るのであり、またこのようなこと は実際に起こっているのである。長い間、より基本的な低次の欲求を満たせられなかった場合、高次の欲求 と低次の欲求を再度検討し、軽率に高次の欲求を諦めていた個々が意識的に高次の欲求を高次のものとして判断する傾向があることが期待できる。故に、自尊心 を維持するために仕事を諦めその後の6ヶ月間飢えに苦しんだ男が、自尊心を諦めることにより元の仕事に戻ろうとするのである。

 

(6) 基本的欲求の明らかな逆転にはもう一つの部分的説明 がある。それは、我々がここまで述べてきたのは行動ではなく自覚的な願望や欲望における高次階層だということだ。行動を見るだけでは間違った印象を受ける かもしれない。我々が述べているのは、人間は、二つの欲求が両方とも奪われた場合、その中で、より基本的なものを求めるということだ。 人間が欲望によって行動をするという根拠はない。あえて言うならば、欲求と欲望以外にも人の行動を促すものは多くある。

 

(7) これら全ての例外よりも重要とされるのは思想、高い 社会的水準や価値観等その他同種類のものかもしれない。このような価値観を持つ人々は、その思想や価値のために全てを諦める殉教者となる。一部において、 これらの人々は一つの基本的概念(あるいは仮説)の参考として認識されている。「早期的満足感によるフラストレーション耐性増加」と呼ばれる概念である。 基本的欲求を、特に若い時期から満たされて生きてきた人々は、現在、そして未来において欲求を満たす妨げとなるものに抵抗する例外的な力が発達していると される。これは単純に、基本的充足の結果として、彼らが強く健康的な個性構造を持ったからである。彼らは容易に反抗や反対を切り抜くことや、公共意見の流 れに逆らって泳ぐこと、そして真実のために大きな個人的対価をもって立ち上がることのできる「強い」人間だ。それは、ただ愛し愛されてきた人々であり、 多くの深い友情を育み、嫌悪や拒絶、迫害に耐えることのできる人である。

 

私は、どの フラストレーション耐性の議論にも関わるある程度の純粋な慣れがあるにもかかわらず、このすべてを申しているのである。例をあげると、長時間に渡る相対的 な飢餓に慣らされた人々は、それにより食料不足に耐えることが幾分か可能になる。慣れ、そして過去の満足感により育成されている現在のフラストレーション 耐性という二つの傾向のバランスをどのようにとっていけば良いかというのは、更なる研究によって解明されなければいけない問題である。その間、我々はこの 二つが互いに相反しないがゆえ、両方並んで活動できると推測しても良い。このフラストレーション耐性増加の現象に関し、最も重要な満足感は人生の最初の二 年に来ると思われる。すなわち、生後数年を丈夫で安全に育った人は、その後、何事に脅かされても丈夫で安全であり続ける傾向にある。

 

 相対的満足度−これまでの理論的な論考は、これら五つの欲求は、段 階的で、完全か全く存在しないかという関係であるような印象を与えたかもしれない。“一つの欲求が満たされると、次の欲求が現れる”という風に述べてきた ためである。この陳述は、次の欲求が現れる前に一つの欲求は 100 %満たされなければならな い、という誤った印象を与えるかもしれない。実際には、我々の社会の正常な人の大部分は、すべての基本的な欲求がある程度満たされているが、同時にある程 度満たされていないのである。欲求階層についてより現実的に説明すると、高次階層を上るにつれ、満たされる割合が減少するといえる。例えば、説明のために 任意の数字を当てはめてみると、平均的な人の生理的欲求は 85 %、安全欲求は 70 %、社会的欲求は 50 %、自尊欲求は 40 %、自己実現欲求は 10 %が充足され ているようである。

 

 優勢な欲求を満たしたあとに新たな欲求が現れると いう概念に関しては、急な、飛躍的な事象ではなく、無の状態からゆっくりと現れるという表現が合っている であろう。例を挙げるとすると、もし優勢な欲求(これを A と呼ぶとする)が 10 パーセントしか満たされていないとしたら、欲求 B はまったく見えない かもしれない。しかし、この欲求 A 25 パー セントまで満たされれば、欲求 B 5 パー セント、また欲求 A 75 パー セント満たせば欲求 B はさらにあらわになるであろう。

 

欲求の無意識的特性−これらの欲求は必ずしも意識的か無意識的のいずれか であるとは限らない。しかしながら、全体から見て、平均的な人物ではこれらの欲求はたいてい意識的より無意識的である。現時点では無意識的なモチベーショ ンの決定的重要性を明らかにする多量な根拠を精査することは必要ない。先験的根拠のみに基づいても、全体として、無意識的なモチベーションが意識的なモチ ベーションよりも重要であると予測できるだろう。我々が基本的欲求と呼んでいるものは、ふさわしい技術や教養のある人々にかかれば意識的なものになるかも しれないが、非常に多くの場合、無意識的なものである。

 

 欲求の文化的特異性と一般性−この基本的欲求の分類は、特定の欲求における文化間 での差異の背後にある統一性を説明しようとするものである。確かにどの特定の文化でも個人の 意識的なモチベーションの内容は普通別の社会の個人の意識的なモチベーションとかなり違う。しかし、人々は違う社会にいても、我々が彼らに最初に接触した ときに思うよりもっと似通っていて、彼らをよりよく知るとともに我々はより多くの一般性を見つけるようになるというのが人類学者の一般的な経験である。我 々はその時最も驚くべき違いが基本的なものではなく表面的なものだと認識する。例えば、 髪型、服装、食べ物の好みの違い、等である。我々の基本的欲求の分類は、部分的にはこの文化間の外見上の多様性の背後にある統一性を説明しようとする試み である。全ての文化について根本的あるいは普遍的な主張はされていない。私が主張したいことは、表面的で意識的な文化ごとの欲求よりも、それは相対的によ り根本的、より普遍的、より基本的であり、一般的な人間の特徴に幾分近い取り組みであるということだ。基本的欲求は表面的な欲求や行動よりも、より人間に 共通なものである。

 

 多様な行動のモチベーション-これらの衝動は、ある特定の種の行動の排他的、ある いは単一の決定要因ではないということを理解する必要がある。その例は、摂食行為や性行為、あるいはその他同類のもののような、生理的に動機づけられてい ると思われるどのような行動にも見られるだろう。どのような行動も、様々な決定要因が流れる水路のようなものだろうということを、臨床心理士はとうの昔に 発見していた。

 あるいは換言すれば、ほとんどの行動は多様に動機 づけられているのである。モチベーションの決定要因として、いかなる行動もただ一つの基本的衝動によってではなく、同時に複数、あるいはすべての基本的欲 求によって、動機づけられる傾向がある。ただ一つの基本的欲求に動機づけられることの方が、複数のモチベーションを持つ場合よりも少ないのである。摂食行 為は、一つには食欲を満たすために行われ、また他方では安楽と他の欲求の充足のためになされるのだろう。人が性行為をするのは、純粋な性の解放のためのみ ならず、自分の男らしさを確かめるため、征服感を得るため、力を感じるため、あるいはもっと基本的な愛情を得るためなのだろう。例として、個人のある行動 を分析し、その中にその人の生理的欲求や安全への欲求、社会的欲求や自尊欲求、さらには自己実現欲求の表出を見出すことは、実際にではないにしても理論の 上では可能だということが指摘できる。これは、攻撃的な行動は単に攻撃性という特性から生じるとするように、ある特性や動機をある種の行動の原因とみな す、より素朴な特性心理学とは、強い対比をなすものである。

 

 複数の行動決定要因-すべての行動が基本的欲求により決定されるとは限ら ない。すべての行動に動機があるとは限らないとさえも言えるだろう。行動を決定づけるものは、動機のほかにも多数の要因がある。[9] 中でも重要度の高い決定要因の一つに、例えば「場」という要因がある。論理的に考えても少なから ず、行動は場によって完全に決定づけられるだろう。あるいは関連づけられた考えや、ある条件を反映した状態などの特定の独立した外部刺激によることもあ る。例えばもし「テーブル」という外部刺激に反応するとしたら、私は即座にテーブルの映像を思い起こすが、この反応は私の基本的欲求とはなんら関係のない ものである。

 

 次に「基本的欲求に対する厳密さの度合い」または 「動機の度合い」に再び注目してみたいと思う。ある行動には大きなやる気が伴い、ある行動に対してはほとんどやる気が起こらない。そしてまったくやる気の 起こらない行動もある(すべての行動は動機づけられているはずだが)。

 

 もう1つ 重要な点 [10]は、自己顕示的行動とコーピング行動(職務上の努力、意図のある目標探し)には 根本的な違いがあるということである。自己顕示的行動はいかなる事もしようとしない。つまり、これはただの人格の表象である。愚か者は愚かに振る舞うが、 それは彼がそうしたいからでも、そうしようとしている訳でも、動機づけられているからでもなく、ひとえに彼のままいることが彼のあり方なのである。私がテ ナーやソプラノではなくバスの声域で話す時、同じ事が言える。健康な子供の予測できない動き、1人の時でも幸せな人の笑顔、健康な人の歩みの軽妙さ、そし てその人の身のこなしのしっかりした様子などは、自己顕示的で、実用的でない態度の例である。また、動機づけられていようがいまいが、人の全ての振る舞い の有り様は、しばしば自己顕示的なのである。すると、全ての行動が性格の構成を表現あるいは反映しいるのだろうか、という疑問を我々は持つであろう。答え は「否」である。機械的、習慣的、自動的、あるいは因習的な行動は表現されることもされ得ないこともある。ほとんどの「刺激と結びついた」行動においても 同じことがいえる。最後に、行動の表現と、行動の目的への直結は相互的に排他的な区分ではないということを主張する必要がある。平均的な行動は通常両者で ある。

 

目標 を中心原理とするモチベーション理論― 我々の区分における基本的な行動の基準は誘因でも動機づけられた行動でもなく、むしろその行動の機能、影響、意図、あるいは目的であるということに気づく だろう。このことがいかなるモチベーション説に焦点を当てる上でも最も適した要点であるということが多くの人によって十分に証明されてきた。[11]

 

動物 中心主義と人間中心主義― この理論 は、どんな下等で、おそらく「単純な」動物よりもむしろ人間から始まるものである。動物についてなされてきたあまりに多くの研究結果は、動物には当てはま るが人間には当てはまらないと証明されてきた。私たちが人間のモチベーションを研究するために動物から始めるべきだという理由は一切ない。この「見せかけ の単純さ」という一般的な間違った確信の背後にある論理、いやむしろ没論理は、様々な分野で科学者によって明らかにされてきたのと同様に、哲学者や論理学 者によっても十分よく明らかにされてきた。地理学や心理学や生物学を研究する前に数学を勉強する必要性以上の意味を、人間について研究する前に動物を研究 する必要性はもたない。

 

 私たち は、動物の基準から人間を評価することが必要である、又はより『科学的』であると主張してきた古く、単純な行動主義を拒絶するであろう。この考えがもたら す一つの結果として全ての目的と目標の理解は白いネズミに目的を尋ねられないからという理由で動機づけの心理学から排除された。トールマン(18)がこの除外は動物学において不要だと証明して久しい。

 

モチ ベーションと精神障害起因説―日常生活に おける意識的な動機づけの反応内容は、最低目標にどの程度密接に関係しているかにより、先の説に基づいて相対的に重要であるかないかの判断がなされる。た とえば、アイスクリームのコーンは、間接的ではあるが、愛情への願望の象徴であると考えられる。もしそうであれば、アイスクリームのコーンへの願望は極め て重要なモチベーションであるといえる。しかし、アイスクリームが単に冷涼感や生理的な食欲反応をもたらすものであると考える場合、この願望は比較的重要 ではない。このような日々の意識的な願望を、さらなる最低欲求の表面指標の症状であるとい える。この症状がみられる場合、その症状の背景に隠されたものよりも、表面的な症状を克服することに重点を置くため、克服不能な完全な錯乱状態の中、すな わち精神障害に陥った状態においてその有用性を見いだせるといえる。

 

 重要でな い願望を妨害する事では、精神病理学的結果は生まれない。(むしろ)基本的に重要な欲求を妨げると、そのような結果をもたらす。ということは、精神病理学的発病の理論は、動機 づけの理論ののようなものに基づくに違いない。衝突や挫折は、必ずしも発病原因とはならないのである。そうなるのは、基本欲求、(あるいは)それに極めて関係する部分的な欲求が脅か されたり妨げられた時のみである(10)

 

満た された欲求の役割 ―― より高次の欲求が満たされているとき限り、私たちの欲求が普通現れることが上記の数回において指摘されているのである。そのため欲求を満たすことは欲求階 層説において重要な役割を持つのである。しかし、これとは別に、欲求は満たされるとすぐに積極的な決定や体系化の役割を担うことを止めようとする。

 

 これが何 を意味するかというと、たとえば基本的に満足している人は、社会的欲求や自尊欲求、安全欲求をもはや持っていない。彼がそれらの欲求を持っていると言える かもしれないたった一つの意味は、ほとんど形而的な意味で、満足している人でも空腹がある、あるいは満たされた瓶でも空であるということだ。もし我々が、 何が我々を動機づけてきた、あるいは何が動機づけるだろうか、何が動機づけるかもしれないだろうかということではなく、何が実際に我々を動機づけるかに興 味があるなら、満足された欲求はモチベーションをもたらさない。すべての実用的な目的が単純に存在するだけでなく、なくなったと考えられなければならな い。この点は、私が知るすべてのモチベーションの理論で見逃されている、あるいは矛盾しているので強調すべきである。[12] 完全に健康で標準的で幸せな人は、すぐに通り過ぎる脅威の瞬間を除いて、性欲求や、空腹の欲求、 安全欲求、社会的欲求、名声の欲求、社会的欲求、自尊欲求はない。もし、その他の方法で言うとすれば、すべての人が、例えばバビンスキー反射のなどの病的 反射を持ち合わせているということもまた断言されなければならない。というのも、神経システムが損傷を受けていなければ、これらの病的反射は起きないから だ。

 

 どのよう な基本的欲求も妨害されている人という挑戦的な過程がこれらの考察であり、単純に病人であると予想するのが妥当であろう。これは我々がビタミンやミネラル を失っている人の「病気」を称するための妥当な類似である、ビタミンの欠如が愛の欠如より重要でないと誰が言えるのであろうか。愛の飢餓の発病させる効果 を知っている以上、内科医がぺラグラ病や壊血病と診断するように我々が非科学的または非合法的な方法で価値の疑問を呈したと誰が言えるのであろうか。もし 私がこの使用を認めたとしたら、私は単純に健康な人は最も基礎的にその人の最大の可能性や能力を進歩させ実現させるという欲求に動機づけられるというべき であろう。もしある人があらゆる活発で慢性的な感覚にあらゆるほかの基礎的な欲求があったとしても、その人は単純に不健康な人である。突然強い塩分欠乏や カルシウム欠乏を生じるように、その人は確かに病気である。[13]

 

 もしこの 発言が独特で会ったり矛盾するように思うのであれば読者は人のより深いモチベーションを見る我々の手段を我々が訂正するときに見えるたくさんのそのような 矛盾の中の一つであると確信するかもしれない。、人に人生においてなにを欲するかを尋ねた時われわれはまさに彼の本質を扱っている。

 

W.要約

 

 (1)少なくとも五つの到達点があり、それは我々が 基本的欲求と呼ぶものである。ようするに、生理的欲求、安全欲求、社会的欲求、自尊欲求、また、自己実現欲求である。さらに、我々はこれら基本的に実現さ れたさまざまな状況を達成、あるいは維持する願望やより知的な願望に動機づけられるのである。

 (2)これらの基本的な到達点は互いに関連して、階 層的な優位性により位置づけられている。最も優位性の高い到達点は意識を独占し、生命体の様々な才能の補強を管理する。優位性の低い欲求は軽視され、忘れ られることや否定されることがある。しかし、ひとつの欲求がある程度満たされた場合、より優位性の高い欲求が現れ、意識を独占させて行動の組織の中心とし て働くのである。なぜなら、満たされた欲求は活動的な動機にならないからである。

この様に, 人間は永久に求め続ける動物である。通常、これからの欲求の満足感は完全に互いに排他的ではなく、そう いう傾向にある。普通の社会人は自身の欲求が一部満たされているが、他の一部は満たされていない状態にある。階層説は、経験上、欲求の優位性が上昇すると 非満足度の割合が増加する様にみられる。ときには、この平均的な階層の逆もある。また、特別な場合、個人が永久的に階層の高い位置にある欲求を失うことも 観察される。普遍的な行動において、通常の多様な動機だけではなく、他に決定要素はある。

 (3)これらの基本的な人間の目標を阻害するあるい はその可能性のあるもの、または彼らを守る防御及び存在する状況に対する脅威は、どれもが心理的脅威と結び付けられる。少数の例外を除いては、すべての精 神病理学は部分的にでもそのような脅威をさかのぼってゆくことが出来よう。実際のところ、根本的に阻害された人間は、言うならば「病人」とは定義されな い。

 (4)そのような基本的阻害がさまざまな危機的反応 を引き起こすのである。

(5)他の基礎的な諸問題については、範囲に限度があ ることから取り扱われてきていない。それら範囲外の諸問題の中には、あらゆる動機づけ理論の定義における価値の問題、好み、願望、欲求間の関係及び生命体 にとっての「良い」の意義、基本的欲求及びそれが幼児期に派生しやすい事の原因究明、モチベーション概念の再定義(例として、衝動、願望、希望、要求、目 的が挙げられる、本稿においての動機づけ理論が含蓄する快楽説、成功と失敗の中で起きる未完の行動又は願望水準におけるそのような行動が持つ性質、連想、 習性、条件付けの機能、対人関係理論との関係、精神療法についての暗示、社会論についての暗示、利己的行動の学説、欲求と文化類型間の関係、そして本稿に おける動機づけ理論とオルポートの学説である機能的自立性との関係が含まれている。動機づけ理論が決定的となるよう試みるには、これらの諸問題且つ他の重 要性が低い事柄についても考慮しなければならないのである。

 

 


注釈

 

 []子供が成長するに従い、運動能力の発達のみならず高い知識と慣れをよって、このような脅威はより減少し、よ り対応可能になってくる。人生を通じ、教育の主要な訴え機能のひとつは、知識をもつことで、身近に迫る脅威がこのように克服されることにあるであろう。例 として、「私は雷は怖くない、なぜなら少しはその知識があるから」ということである。

 []安全性においての“テスト=バッテリー”(知能・適性・能力などの測定に有効ないくつかのテスト(下位テス ト)を組み合わせてつくられたテスト群)とは、子供に小さな爆竹を与えてみる、(ひげを生やした)怪しい人と対面させる;母親に部屋を出て一人にさせてみ る、高い梯子の上に登らせてみる、皮下注射をうたせる、ネズミを自分の身体によじのぼらせる、などを含むものである。もちろん、私はこれらを含む“テス ト”を受けることを真剣に薦めるわけではない。なぜなら、これらがテスト最中に子供たちを傷つける可能性は十分にあり得るからだ。しかし、これらのような 状況は子供たちの日常生活の中で頻繁に浮かび上がり、そこから観察することができる。若いチンパンジーを分析するように、これらの要因を使わない理由はど こにもない。

 []全ての神経疾患者が不安を感じるわけではない。神経症の大きな原因は、一般的に安全といわれる人の愛情と自 尊欲求の妨げであるのだ。

 []詳しくは(12)と(16Chap.5)を参照

 []この欲求が普遍的かどうかは定かではない。そこで昨今において特に重要な質問が「奴隷となり支配された人間 は不満や反抗心を持つのか?」ということである。私たちは通常の医学データを基準として真の自由を知る人間(安 全と保護を放棄することで報酬を得ず、むしろ安全と保護があることを前提にした)は快く、もしくは 容易に自由を剥奪されることを受け入れないことを予測するだろう。しかし我々はこれが生まれながらにしての奴隷に当てはまるのかは知らない。今後10年間 に起こる出来事がその答えになるだろう。この問題についての議論は(5)参照。

 []おそらく他人からの名声や尊敬は人間の自尊心と自身の欲求に対して補完的なものだろう。これは子供の観察か ら証明されるが、医学的なデータからでは明確に結論付けることはできない。

[]通 常の自尊心に対しての更なる議論と、様々な研究者の報告は(11)を参照。

[]絵 を描くことのような、明らかに創造的な行動は他の複数の、決定要素がある時の行動のようである。それらは彼らが満足しているかいないか、幸福か不幸か、飢 えているか満たされているかにかかわらず、"生まれつき創造的な"人たちに見られるかもしれない。また創造的な行動が埋め合わせ、改良、あるいは純粋に利益になるかもしれな いことは明らかである。基本的に満足している人たちの芸術的で知性的な生産物と基本的に満たされていない人たちのそれとを調査のみで見分けることは可能だ というのは私の印象(まだ証明されていないので)である。どんな場合でも、ここでも私達は、精力的な方法で、目に見える行動そのものとそのさまざまな動機 あるいは目的を見分けなくてはならない。

 []私は多くの心理学者心理分析医らが`刺激される`と決心させられる`の意味をひとしく使っていること に気付いている。(たとえばフロイト)。しかし私はこれを分かりにくくする使い方だと考える。はっきりした区別は考えの明確さ、そして実験の正確さのため に必要である。

 [10]今 後の出版物の中で十分な議論が為されるだろう。

[11]興味を持たれた読者は、マーレイの『個性の探求』(15)にある、この論点に関する素晴らしい議論に惹かれるだろう

 [12]こ の理論を受け入れるためには、フロイト主義の理論を基礎から再考する必要があるだろう。私がこの用法で""という単語を使ったとすれば、我々はきっぱりと人と社会との関係を直面する必要があるだろう。我々の定義に 明確に暗示されていることは(1) 根本的に妨げを受けているものが「病」と呼ばれること(2)そういった根本的妨害が結局外部の個々人からのみによって可能となること、そして(3)個人の病は結局社会の病から来るものでなければならないこと、である。"よい"若しくは健康な社会は、全ての抜きん出た基本 的欲求を満たすことによって人の最も高次の目的を浮かび上がらせることを許す社会と定義される。

 

 

 


References

1. ADLER, A. Social interest. London: Faber & Faber, 1938.

2. CANNON, W. B. Wisdom of the body. New York: Norton, 1932.

3. FREUD, A. The ego and the mechanisms of defense. London: Hogarth, 1937.

4. FREUD, S. New introductory lectures on psychoanalysis. New York: Norton, 1933.

5. FROMM, E. Escape from freedom. New York: Farrar and Rinehart, 1941.

6. GOLDSTEIN, K. The organism. New York: American Book Co., 1939.

7. HORNEY, K. The neurotic personality of our time. New York: Norton, 1937.

8. KARDINER, A. The traumatic neuroses of war. New York: Hoeber, 1941.

9. LEVY, D. M.  Primary affect hunger. Amer. J. Psychiat., 1937, 94, 643-652.

10. MASLOW, A. H. Conflict, frustration, and the theory of threat. J. abnorm. (soc.) Psychol., 1943, 38, 81-86.

11. ----------. Dominance, personality and social behavior in women. J. soc. Psychol., 1939, 10, 3-39.

12. ----------. The dynamics of psychological security-insecurity. Character & Pers., 1942, 10, 331-344.

13. ----------. A preface to motivation theory. Psychosomatic Med., 1943, 5, 85-92.

14. ----------. & MITTLEMANN, B. Principles of abnormal psychology. New York: Harper & Bros., 1941.

15. MURRAY, H. A., et al. Explorations in Personality. New York: Oxford University Press, 1938.

16. PLANT, J. Personality and the cultural pattern. New York: Commonwealth Fund, 1937.

17. SHIRLEY, M. Children's adjustments to a strange situation. J. abrnorm. (soc.) Psychol., 1942, 37, 201-217.

18. TOLMAN, E. C. Purposive behavior in animals and men. New York: Century, 1932.

19. WERTHEIMER, M. Unpublished lectures at the New School for Social Research.

20. YOUNG, P. T. Motivation of behavior. New York: John Wiley & Sons, 1936.

21. ----------. The experimental analysis of appetite. Psychol. Bull., 1941, 38, 129-164.

 

 

 


訳者あとがき

 

本翻訳は、Psychological Review所収 のマズローの論文、A Theory of Human Motivationの全訳である。翻訳は、稲葉が担当していた2011年度国際基督教大学教養学部の専門科目『経営学』の授業の一環としておこなわれた。

 

原著が公開されているサイト(http://psychclassics.yorku.ca/Maslow/motivation.htm

にあった原文を、履修者90人ほどで分担し翻訳したものだ。

 

人間性心理学(Humanistic Psychology)の創設者の一人、アブラハム=マズロー。心理学はもとより、教 育学や看護学、そしてもちろん経営学でもおなじみの人物だ。人間の主体性や創造性、そして自己実現を目指す側面に注目し、人間はなぜ行動を起こすのか、そ してなぜ異なった欲求、そしてその欲求を満たす行動をとるのかという問いに答えるべく、欲求階層説(自己実現理論)を提示している。理論は、個人が自身の 求めているものやとるべき行動について省察する上で、また一方で企業などの組織がそのメンバーを動機づける際に一つの枠積みを提供している。

 

原著を読んでみると、講義や教科書で紹介された理論 の基本的な枠組みがこのような論じられ方をしているのか、と驚く学生も多かったのではないだろうか。学部レベルの授業で、社会科学の古典の原文を読む機会 などないに等しい。しかし、これも一つの経験である。一生に一度でよいのでそのような機会を持つのも悪くない。そしてもし時間があれば、著者の思索や執筆 に注いだエネルギーを感じながら、完成した訳文をじっくり味わってみてほしい。

 

翻訳の際には、各自が訳を始める前に参加者全体で基 本的な訳語や文体を統一させておき、できた訳文を相互にチェックするというやり方ですすめていった。出来るだけ各担当者のオリジナルの文章を使っている が、必要に応じて稲葉が改訳している。

 

必ずしも専門的な知識を持った学生ばかりが集まって いたわけではないので、まだまだ誤訳や稚拙な表現が残っているかもしれない。時間を見つけて、手直ししていこうと考えている。

 

 

国際基督教大学教養学部

2011プロジェクト杉田玄白参加メンバー

 

長澤佑果

小林明日香
堀口千潤

阿部陽香

北條志保

河村朋子

永福啓太

古江里奈

倉橋望

益田拓

高橋多聞

Petrovskiy Alexey

西村真梨絵

境 亨允

冨田千尋

砂川佳慧

鈴見麻衣

上田豪一

徳丸理恵

江藤秀明

木村孝幸

柿沼舜宜

古賀美早

川瀬圭亮

長谷川つくし

堀込竜也

布施はる奈

平森大規

小林昇平

影山直毅

濱本果奈

松尾みほ

荻原しおり

小池直樹

峯嵜杏子

長屋悠史

栗原陽紀

西村隆佑

森谷亮介

西村隆佑

森尾未希

岡部真由子

山田貴禎

大田一博

谷津香奈子

横田洋子

佐藤 茜

渡辺真奈

津島絵美莉

柴原菜美

王 静華

大久保良平

尾崎らら

金 眞瑜

ダゲン舞亜

浜岡良洋

佐藤俊輔

岡野詩音

朴 淳

中元佐紀

藤本真裕

江崎湧斗

河野友亮

新居芹奈

篠原拓実

福島香南

鵜飼力也

竹内 更

原口 幸

中村あさき

石川拓也

坂田 純

菊池亜伊

一木絢子

渡辺あゆみ

山守凌平

吉田早也香

小林可奈

小室 圭

成田千亜紀

清水香奈

齋藤勇太

石原有紗

大森悠介

久保田恵理

穴沢佳織

片岡一郎

萩原寧樹

小松友佳

馬場 昴

清原玲子

佐々木真

  +

稲葉祐之