プロジェクト杉田玄白 正式参加作品
『科学的管理法の原理』(学生訳版)
(The
Principles of Scientific
Management)
フレデリック ウィンスロー テイラー(Frederick
Winslow Taylor)著
大阪市立大学商学部・国際基督教大学教養学部
プロジェクト杉田玄白参加メンバー 訳
(メンバーのフルリストは、最後尾に)
本翻訳の最新版は、
http://subsites.icu.ac.jp/people/yushi_inaba/ProjectSugitaGenpaku/SciMgt.htmlにあります。
※ この翻訳の底本には、プロジェクトグーテン
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Management)』(http://www.gutenberg.org/etext/6435)を使用しています。
****Start of the Project Gutenberg Ebook Scientidic
Management****
**** プロジェク
ト・グーテンベルグ イーブック フレデリック・ウィンスロー・テイラー著 科学的管理法の原理 翻訳ここから ****
英語版入力 チャール
ズ E ニコルズ
(Charles E. Nichols)
科学的管理法の原理
フレデリック ウィンスロー テイラー著
(Frederick
Winslow Taylor, M.E., Sc.D.)
1911年
序章
ルーズベルト大統領の
ホワイトハウスでの知事たちへの所信表明は、「国家的資源の保護は国家的な能率のより大きな問題のための下準備にすぎない。」と予言的に述べたものだっ
た。
国全体が限りある資源
の保護の重要性を認識すると同時に、この目的を成し遂げることに有効であろう大きな運動が起こり始めている。しかしながら、まだ私たちは「国家的な能率向
上のためのより大きな問題」の重要性を漠然としか評価していない。
私たちは切り倒されて
ゆく森林や、浪費されていく水力や、洪水によって土壌が海の中に流されることや、石炭や鉄がもうすぐ尽きることを見ることができる。しかし人間の努力の無
駄はより大きく、毎日の私たちの行動の失敗を通して起こる。方針の間違い、効率の悪さのようなものである。そしてこれらをルーズベルト氏は「国家的な能
率」の欠点を目に見えにくく、はっきりしにくく、そして漠然とした評価しかしていないこととして言及している。
我々は物質の浪費は見
たり感じたりすることができる。しかしながら、厄介な能率の悪い方針の間違った人間の行動は、目に見えたりはっきりしたものとして後に何も残らない。それ
を察知するには、きちんと記憶したり推測したりする努力が大いに求められる。こういった原因から生じる日々の損失が物質を浪費することによって生じる損失
よりも大きくなっているにもかかわらず、物質の浪費は我々深く注意するものの、一方で非能率による浪費はほとんど気にはしていないのである。
今までのところ「国家
的能率の向上」の世論はないし、これらを如何に成し遂げるべきか呼びかけた会合もない。しかし今も能率性向上を広く啓蒙する必要は標榜されている。
過去、今ほど精力的な
ものではなかったが、大会社の社長から家事の使用人にいたるまで、より優れたより有能な人材を捜し求められてきた。が今こそ有能な人材がその供給を超え
て、より多く待たれている時代なのである。
しかしながら、私たち
が求めているのは既に完成している有能な人(誰か他の人が育成した人)だ。 国家の能率を上げようと思うならば、他の人が育てた人を探すかわりに組織立っ
て協調して有能な人物を作ることが、私たちの機会であると同様に義務であることを十分に悟らなければならない。
昔から、「産業界の指
揮官たちは作られるのでなく、うまれながらのものである」とうまく表現されていた。そして適切な人材を手に入れることが出来るなら、方法は彼に委ねれば大
丈夫という理論だった。これからは、私たちのリーダーは正しい生い立ちと同様に正しい教育をされる事も大事である。そして多くの普通の人が正しく組織し能
率的に協力すれば、偉大な人でも個人的な古い経営システムをしている限りは競ってもそれに勝つことを望むことはできない。
今までは、人間が最も
重要とされていた。しかし未来においては、システムが最も重要でなければならない。だがこれは、優れた人間を必要とするシステムが消滅するというわけでは
ない。それどころか良いシステムにおいて最も重要なのは、一流の人間を発達させることにある。組織的な運営において一流の人間は以前よりも確実に、そして
早く昇進するのはまちがいない。
この論文の目的はこう
である。
第一に我々が毎日行っ
ていることのほとんどが非能率であり、国全体で大きな損害を被っていることを簡単な例証で指し示すこと。
第二に何人かの能力の
際立った、並外れた人間をさがすよりも、非能率を改善し組織的な運営をすべきであると読者に納得させること。
第三に最善の管理と
は、基礎として、明白に定義された法則、規則および原理に基づくこと、つまり真実の科学であることを証明すること。その上、科学的管理法の根本原理は私た
ちの最も単純な個人の行動から、極めて精巧に考案された協力が要求される偉大な企業での労働へと、すべての人間の活動に適用可能なことを示す。さらに、適
用さえ間違えなければ、一連の実例を通して、これらの原理が適用される時はいつでも、本当に驚くべき結果がついてくるに違いないということを読者に納得さ
せることである。
この論文はもともと、
米国機械工業学会での発表のために準備された。選ばれた実例は、特に、工業そして製造業の技師や管理者を対象に訴求するものであり、また、それらの工場で
働くすべての人に訴えかけるであろうというものであった。しかしながら、それ以外の読者たちにも、この論文における同じ原理がすべての社会活動において機
械技師たちと同等の効力が適用されるであろうということ、また家庭の管理、農場の管理、小さいもから大きなものまで全ての商人のビジネス管理、教会、慈善
施設、大学、および政府の省庁の管理にも同じように適用できることを理解してもらいたいと考える。
第1章
科学的管理法の基礎
管理の第一の目的は、
それぞれの従業員の最大限の繁栄を結びつけ、雇主の最大限の繁栄を確保することである。
「最大限の繁栄」とい
う言葉は彼らの意識の中で、その繁栄を永遠なものにするために、企業や所有者の大きな配当金というだけではなく、卓越した最も高い状態に全ての業務の部門
の発展という意味で使われている。同じようにそれぞれの従業員にとっての最大限の繁栄は、その人の所属する部門の長からいつも支払われるより高い給料を得
るというだけでなく、一般的に言って本質的な能力が適した仕事でより高い評価を得ることができるように、それぞれの従業員の最大限の能率があがる作業の発
展という意味や、さらに可能なとき、すべき仕事を従業員に与えられるということも意味の重要性を意味している。
従業員にとっての最大
限の繁栄と結び付けられる雇主にとっての最大限の繁栄が管理の二つの主な目的であるということは当然のことであり、この事実をはっきりと述べる必要がない
ほど明らかなことである。それにもかかわらず、産業界の至る所において雇主の大部分の組織は従業員と同様に平和のためというよりはむしろ戦争のために作ら
れている。しかも、おそらく両者の大部分はそれらの利害が同一になるような相互関係を十分に整えることが可能であるということは信じていない。
これらの人間の大多数
は従業員と雇主の根本的な利害は必然的に対立すると信じている。科学的管理はそれに比べて、その確かな土台として、二つの本当の利害は一つでありそして同
じであるという堅い信念を持っている。つまり、雇主にとっての繁栄は、従業員にとっての繁栄を伴わない限り、長期間存続することができないし、逆に従業員
にとっての繁栄は、雇主にとっての繁栄を伴わない限り存続することができない。そして、作業員が最も欲するものである高賃金を与えることや雇主が彼の製造
業において最も欲するものである低い人件費を与えることは可能である。
これらの目標各々に賛
同しない人たちの少なくとも一部が見方を変えてもらいたい。つまりその雇い主、作業員に対する姿勢ができる限り最小の賃金から彼等に莫大な仕事の量を得よ
うとするものだという雇い主が、作業員に対するより進歩的な手段が彼等により高い給料を払うことだとわからせられるかもしれない。つまりそうすれば雇い主
にまずまずで均一の大きな利益をしぶしぶ与えているような作業員、そして労働の成果の全てがその利益に属すると感じている作業員、そして彼等が作業して企
業に投資される資本にほとんど何の権利も与えられない作業員がその見方を変えさせられるかもしれない。
各々どんな個人の場合
でも、最高の富があり得るのは、個人が最高の能率状態に達しているときのみである。つまりそれは、個人が毎日最高の産出高を生産するときである。
この事実の真実はまた
一緒に働いている2人の人間の場合に完全に明らかになる。説明すると、もしあなたとあなたの作業員がかなり熟練になって、あなたとその人が一緒に一日で2
足の靴を作っているとして、あなたの競争者とその作業員はたった1足しか作れないとする、するとあなた達は2足の靴を売った後、たった1足の靴しか作れな
かったあなたの競争者がその作業員に払うことが出来る給料よりも、ずっと高い給料をあなたは自分の作業員に払うことが出来るというのは明らかである。そし
て、競争者よりもより大きな利益をもたらし、さらにあなたにのこす十分な財産があるだろう、というのも明らかである。
より完成された製造組
織の場合には、作業員にとって最高で永久的な繁栄、かつ雇主にとって最高の繁栄は、組織の仕事が人間の努力、加えて自然の資源、機会形式の中での資本の使
用のためのコスト、建物、等など・・・による最小で一緒にされた支出が処理された時にだけもたらされるというのも完全にあきらかであるはずだ。あるいは、
同じことについて異なる言い方をすれば、最大の繁栄はその組織体の人間や機械の最大可能生産性の結果としてのみ起こりうる。そしてそれはそれぞれの作業員
と機械が最大可能産出高を作り出しているときであるのだ。なぜなら、あなたの作業員や機械があなたの周囲のほかのものよりよく働き、毎日産出しない限り、
競争が競争相手の作業員よりもあなたが自分の作業員に高い賃金を払う妨げになることは明らかだからだ。そして、お互いに隣り合って互角の競争をしている二
つの会社の場合、高賃金が支払われている可能性があると言え、またそれは国内の競い合っている地区同士に関しても、さらに国家同士でさえも言えることだ。
要するに、最大の繁栄は最大生産性の結果としてのみ起こりうる。後ほどこの論文で、たくさんの配当を稼ぐと同時に、会社のすぐ近くの同種の作業員よりも自
分の会社の作業員に30%から100%高い
賃金を支払っているいくつかの会社についての説明を示すつもりであるし、またそのような会社の雇い主は競い合っている。これらの説明は最も初歩的なものか
ら最も複雑なものまで様々な職種に適用されるだろう。
もし、上記の推論が正
しいなら、それは次のように、作業員と管理者の最も重要な目標は組織における各個人の訓練と熟練ということになる。そのようにして彼は(彼の最も早い速さと最高効率で)、彼が仕事にたいし
て持ち合わせている能力の最高級の仕事をすることができるのである。
これらの原理はあまり
にも当たり前のことなので、多くの人はそれらを改まって言うのはまったく幼稚なことと思うほどである。しかしながら、事実に目を向けてみよう。このような
人々はこの国にもイギリスにも実際にいる。イギリス人やアメリカ人は世界でも偉大なスポーツマンである。アメリカの作業員が野球をするときや、イギリスの
作業員がクリケットをするときにはいつも、彼が自分の勝利を確実にするために全力を注ぐといってもいいであろう。彼は、できるかぎりかなり多くの得点を取
るよう最善を尽くす。その変わらない感情はあまりにも強いため、スポーツをやっていてすべてを投げ出しやめてしまう人は、「敗北主義者」の烙印を押され、
そして周りの者から軽蔑的な扱いをうける。
同じ作業員が次の日に
作業に戻った時、努力して可能な限り最大量の作業で生産する代わりに、大多数のケースにおいてこの人間(作
業員)が問題にならない程度に仕事をする為に故意に計画より生産を少なくしたり、中には1日の適切
な作業量の3分の1から2分の1しか作業しない事例も見受けられた。そして、もし彼が可能な限り最大限の生産を行なう上で最善を尽くして仕事を行った事が
わかると、彼は作業仲間から罵られ、更に彼自身がスポーツで言う「敗北主義者」であるという証明になる。すなわちこのような作業化に於いては、故意に作業
をゆっくり行い、一日のなすべき作業を回避する事をこの国(アメリカ)では「soldiering」と呼ばれ、イングラン
ドでは「hanging it out」と呼ばれ、スコットランドでは「ca canae」と呼ばれ、これはほとんど普遍的に産業組織体で現れ、更には建設業界の大きな範囲で妨げと
なってきた;そして筆者はあえて矛盾の恐れなしに、イングランドやアメリカの労働者が、これら今最も苦しめられている大きな悪を構成するもの(すなわち怠業)によるものであると主張する。
緩慢な作業や各種の
『怠業』を止め、各作業員がそれぞれ最大限の実力を発揮し、管理者の個人的な協力や管理職から(もともと受けるべき)援助により出来る限り早く仕事をこな
せるよう労使の関係を改善することで、各作業員及び各機械に対し平均して2倍近い成果が得られることが、後述の論文から明らかになるだろう。繁栄促進、貧
困減少、苦難緩和に向けて2カ国間協議の中で、更に考えられる改善策が他にあるだろうか。アメリカとイギリスは先日関税、大企業の統制や伝統的権力といっ
た問題、そして多かれ少なかれ存在する税制に対する様々な社会主義的な提案について議論した。これらの問題に関して両国民はとても動揺しているが、賃金、
繁栄、労働者ほぼ全員の生活、全産業の大規模な繁栄、国家の確立に直接的かつ強力に影響を与えるこの限りなく壮大な『怠業』という重大な問題に対する注意
を呼びかける声は未だほとんどあがっていないという有様である。
『怠業』とのろのろ働
くいくつかの原因を取り除く事は、生産コストを下げ、私たちの国内市場と外国市場とを拡大し、対等にライバルたちと競うことができる。それは不景気、雇用
不足、貧困の基本的な原因を取り除くことであるといえる。今日、それらの結果を和らげるために試みられているいろいろな対応策のどれよりも、『怠業』を止
めることがより普遍的で一番有効である。それはより高い賃金、より短い労働時間、より良い仕事と家庭環境の保証を可能にする。
そして最大の繁栄は、
各作業員が一日の最大可能な業務のために努力することで、存在できるという自明の事実に直面することである。私達人間の大多数は、意識的に反対のことをす
る、人間が最も能率的である時でも、それらの仕事はたいてい能率的ではない。これはなぜなのか?
怠業には三つの原因が
ある。それらは以下のように手短に要約することができる。
第一にほとんどの労働
者層が、この業界において各労働者または各機械の生産量を増やせば、最終的に多数の労働者が失業に追い込まれる、と昔から誤解していることである。
第二に一般に使われて
いる間違った管理法により、各労働者が怠惰や非能率的作業をしなければ、労働者の利益を守ることができなくなっている。
第三に非能率的で大雑
把な方法がすべての業界でいまだに行われているために、実際に労働者の努力の大部分を無駄にしている。
大雑把な方法から科学
的方法に変えることによって、結果として生まれる著しい利益をこの論文は証明しようとしている。
さらに十分にこれらの3つの原因を説明する
第一の原因について。
作業員の大多数は、もし彼らが彼らの最高の速度で仕事をすれば、多くの失業者を投じ、その行為が業界全体に対して甚大な不正行為を行う事であるように考え
ている。しかしながら、各業界の発展の歴史は、新しい機械の発明や新しい方式の導入といった改良が行われるたび、この業界の労働者に置ける生産能力の増加
と安価なコストを生じ、失業者を生じさせることはなく、かわりに多くの働く人を必要とした。
一般に使用する品物が
安くなると、その品物に対する需要が増加する。例えば,靴に関するケースを取り上げてみよう。以前は手で行われていた仕事は、各作業を行うための機械の導
入により、原価は以前の何分の一かに下がってしまった。そのために、それらは安く売ることができるので労働者階級のほとんど全ての男性、女性および子供は
一年当たり一足あるいは二足の靴を買い、いつでも靴を履いている。一方、以前の労働者はおそらく五年ごとに一足の靴を買い、贅沢として、あるいは必要やむ
をえない場合のみ靴を履いていて、通常は裸足で歩いていた。靴の機械ができてから一人の労働者あたりの莫大に増加した出力にもかかわらず、そのように増え
た靴の需要のために、以前より相対的に多く人々が現在靴産業で働いている。
ほとんどすべての職業
において労働者はこの種のおかしな教訓を目の当たりに見ているのにもかかわらず、彼らは自分の職業の歴史でさえ知らないので、できるだけ余計に仕事をする
と、自分たちの利益にならないと彼らの父親が信じたように、彼らも固く信じている。
この誤った考えの下で
は、双方の国々の多くの割合の労働者が産出高を削減するために毎日故意にゆっくりと働く。ほとんど全ての労働組合は、労働者のメンバーの産出高を削減する
ための規則を熟考して作った。また、働く人々に対して最も大きな影響力を持つ労働組合幹部とそれと同様に労働者を支援している慈善の感情を持った多くの人
々が、日々この誤った考えを広め、同時に労働者に彼らは働きすぎているということを言っている。
「Sweat shop (搾取工場)」的な仕事と条件について、昔からそして現在に至るまで非常に多くのこと
がしきりに言われている。筆者は働きすぎている人々に対する大きな同情を持ったが、一方、賃金が少ない人々に対しても同情を払ってきた。しかし、働きすぎ
ている人が一人いるとすれば、毎日の労働を故意にゆっくり働いている人が百人はいる。この理由のため、最終的には低賃金になるのは避けられない。そして、
この害悪を修正するために努力しようとする意見はまだほとんどないのだ。
技師、管理者として社
会のどの他の階級の人より、私たちはこの事実をより詳しく熟知している。それゆえ、労働者だけでなく大衆にも知らせることによって、この誤った考えを撲滅
しようとする運動を導くのに最もふさわしいものとされた。しかし、私たちはまだ実際はこの点では何もしていない。私たちは労働扇動者(誤った考えを伝え、
誤った方向へ導く多くの人)や実際の作業状況について無知な感情家が完全に管理するこの現場をそのままにしている。
第二の原因について。
怠業の第二の原因は雇い主と従業員との間の共通した習慣におけるほとんどの管理制度の元に存在する関係である。さまざまな種類の作業が行われるべき適当な
時間について雇い主が無知であることが、作業員の利益のために彼らが‘怠業’することを引き起こすという問題を熟知していない人々にこれを2,3の言葉で
明らかにすることは不可能である。
したがって、筆者は1903年6月に『工場管理』と題名付けられ、ASMEに
おいて発表された論文より怠業の原因を十分に説明できるよう、以下のように引用している。
「この怠業は2つの原
因から生じる。1つ目の原因は、楽をする人間の自然な本能及び傾向によるものであり、それは自然な怠業とみなしてもよい。2つ目の原因は他の人々との関係
によって引き起こされたより複雑な再考及び推論によるもので、それは組織的怠業とみなしてもよい。」
「平均的な人(人生のあらゆる段階において)が、ゆっくりと容易な
歩調で働く傾向にあることについて疑問はない。人がより迅速なペースをとるのは、熟考や見本を観察した結果あるいは、良心や外部からの圧力の結果の後での
み生じる。」
「もちろん、たとえ
彼らの最善の利益に反するかもしれないとしても、自然に最も速い足並みを選んだり、自分自身の標準を掲げたり、熱心に働く、まれなエネルギーや活力や野心
のある人もいる。しかし、これらの少数でめったにいない人々は、平均的な人々の傾向を強調し対比を形作ることでしか役立たない。」
「多数の人がお互いよ
く似た仕事をしたり、日給が単一標準賃率であるということが、この『気楽にやれ』という一般的な傾向を非常に増加させている。」
「これが意味すること
は、よくできる人が、次第に能力の乏しい人にあわせて足並みを落とし、非効率的になっているということである。一般的に活動的な人が働くのと、怠惰な人と
を比べると、その事態の必然性は、答えるまでもない。」
「怠惰な同僚が、私の
たった半分の仕事で私と同じ賃金をもらっているのに、なぜ私は一生懸命働かなければならないのか?」
「これらの状況下で、
人の仕事の注意深い時間研究によって情けないだけでなく、ばかげているという事実が明らかになるだろう。」
「説明すると、著者は
時間を計ってみた。生まれつき精力的な作業員は、仕事の行き帰りの間、時速3〜4マイルのスピードで歩くだろう。そして、一日の仕事が終わった後に家へ急
いで帰ることはめったなことではない。作業場に着くとすぐに時速約1マイルのスピードへと遅くなる。例えば、荷を積んだ手押し一輪車を動かすとき、荷に耐
えるのをできるだけ短時間にするために、坂を上るのでさえかなり速いペースで歩くだろう。そしてすぐに、時速1マイルで遅く歩き戻ってくる。実際に座るに
は不十分でぐずぐずするために、すべての機会を利用する。怠惰な隣の人よりも確かにより仕事をしないようにするために、ゆっくり行く努力をし、実際に彼は
疲れるだろう。」
「人々は、良い評判や
作業員から評価されている職長のもとで働いていた。この状態を注意されたとき、職長は、『私は彼らを座らせないようにできるが、悪魔も彼らが働いている
間、彼らをどんどん仕事を進まさせることなどできるはずがない。』と答えた。」
「人間の生まれながら
の怠惰は重大である。しかし、さらに作業員と雇い主双方を悩ませる最大の悪は、通常の管理のあらゆる枠組みに共通するもので、そして何が作業員の側の利益
を最大限に増進させるかものなのかを彼らが注意深く考えた結果がもたらした、組織的怠業なのである。」
「著者は最近、一人の
まだ小さいがもう経験を積んでいる12歳のゴルフキャディーの話に興味を持った。彼はゴルファーに
キャディーは時給制のため早く動けば動くほど受け取る給金は減り、もし自分が速く動きすぎれば他の連中に袋だたきにあうということを話して、ボールに近づ
くときにゆっくり歩き、人の後ろでぐずぐずしていることに特別のエネルギーと関心そして必要性とを示していたのだ。」
「これが、深刻ではな
いけれども組織的な怠業である。なぜならそれは、雇い主の知識の故に起こっていたのであり、彼はもし自分が望めば組織的怠業をとてもたやすく辞めさせるこ
とができるのである。」
「しかしながら大部分
の組織的怠業は、やればどれくらい早く出来るかをわざと雇い主に知らせないようにしている従業員によってなされる。」
「この種の怠業は大変
普遍的なもので、そのため大きな工場には有能な作業員を見つけることなどほぼ不可能である。たとえ日給、出来高払い、下請制、その他普通の制度でやってい
る所であろうと、作業員達は仕事をのろのろしながら、しかもすごい速さでやっているように雇い主に思わせる方法を研究していると言ってもよい。」
「こういうことになる
原因を簡潔に言うと、すべての雇い主は日給でも出来高払いでも従業員の一日の収入はせいぜいこのくらいが最高額と決めてしまうからである。」
「各作業員はすぐに、
この最高額が自分にとっての特別な場合であると知る。雇い主も作業員が今まで以上に仕事をこなせるとわかれば、遅かれ早かれ作業員にこれまで以下の賃金、
または賃金を増やさずに仕事を強いる方法をいくつか見つけるであろうと悟る。」
「雇い主は、よく年齢
とともに不明確になってしまっている自身の経験や、おざなりで非体系的な観察、またよくても各仕事に要した時間の記録をとってその中で最も速いものから、
一日分の仕事はどの程度定められた水準であるかを知る。多くの場合、雇い主は与えられた各仕事は、今までより速くこなせるとほぼ確信しているが、どれだけ
早く仕事がこなせるかを決定的に示す記録を手にしなければ、ほとんど作業員に仕事を最速の時間でこなさせるために必要な徹底的な対策をとろうとしない。」
「明らかに工員にとっ
ては、これまで以上の速さで仕事をしないようにすることが自分達の利益になるということになる。始めに新しい記録を達成したものが一時的に賃金は上がる
が、他の者はそれまでの賃金で新記録と同様の仕事をしなければならないことを若く経験の無い者が入ってきた時に熟練者は教える。また記録を目指すばかりの
欲望的な男に対しては圧力をかけ、新しい記録をださせないようにする。」
「通常の日給制度とし
て最も良いのは、それぞれの工員の仕事量と能率について正確な記録をとり優秀者には賃金を上げ、基準量に満たないものは解雇する。そして、後任者をよく選
択して入れ替えるようにすれば自然的怠業や組織的大業は広くなくなるであろう。しかし上記のことが起こりうるためには、将来においても出来高払い制度を設
けないということを明らかにし、工員を安心させておく必要がある。そして、仕事上明らかに出来高払い制度ができる場合には、工員はなかなか信用しない。ほ
とんどの場合、彼らの記録を更新するという不安は出来高払い制度の基盤となることを恐れ、できるだけ怠けようとするのである。」
「しかし組織的怠業方
法が十分な発達を遂げるのは出来高払い制度の下においてである。彼がより猛烈に働いて、出来高を増やした結果として、工業単価が 2,3回下げられると、以後は決して雇い主側に立って考えられなくなり、単価の切下げを防ぐには怠業による
ほかはないと決心する。しかし怠業は雇い主を意識的な試みを伴ってだます事であるから、工員の品性のためには、はなはだよろしくない事である。このように
まっすぐな工員は多少偽善的にならざるをえない。雇い主を敵視しないまでも、反対側とみなすようになり、雇い主と工員との間で存在すべき相互の信頼はなく
なり、お互いに同じ目的の為に働いて、その結果を分配するという熟誠と感情とがなくなってくる。」
「普通の出来高払い作
業システムの下では、多くの場合工員の側に著しい反感があり、雇い主の言い出した事は、たとえ理の当然な事でも、疑いで見られる。たとえ出来高を著しく増
やしても、それが彼らの仕事上では何の関係も伴わない場合でさえ、わざわざ機械の生産を制限しようとするくらいである。」
第三の原因について。
遅い仕事の原因の3つ目は後で詳しく説明する。大雑把なやり方をやめて科学的な方法を取れば、雇用
者、従業員ともに利益がある。これは後に実例を述べようと思う。いかなる職であっても、不必要な作業を省き、遅い非能率的な動きを速い運動に変えれば、多
大な時間の節約し、なおかつ出来高を増加することができる。専門家が動作と時間の研究によって得た結果を調べてみると、いかに効果があるかが伺える。
これを簡潔に説明する
と、各職業の従業員が、仕事の細かい部分を覚えたのは、周囲の人々を見習ったためである。よって同じ作業でも、行われている方法がいくつもある。各職の各
仕事を行う方法は40から50あるいは数百
に及ぶだろう。それと同じように各種の仕事に用いられている道具にも、非常に違いがある。しかし、この中で最も速くて優れている方法および道具はひとつし
かないはずである。この最良の方法と道具を発見発達させるには、正確な動作と時間研究を行うことと、現在行われている両者を科学的に研究、分析しなければ
ならない。これは工作技術全般の大雑把なやり方を科学的な方法にかえていくことである。
最善の方法と最善の実
践方法は、現在用いられている全ての方法と実践方法を正確さで詳細な動作そして時間の研究をともなった科学的研究を通じてのみ発見され、発展させることが
可能なのである。これには、機械技術についてのおおざっぱな方法による科学の段階的な代替物も関わってくる。
この論文は、現在広範
に用いられている全ての古い管理システムが前提とする哲学が、各作業員が自ら考える最善の方法で実際に仕事をするための最終的な責任が本人に残され、相対
的に管理者の支援と助言はほとんどないということを不可避なものとなっていることを示すであろう。そしてそれはさらに、このような作業員たちへの疎外のた
めに、科学の規則や法則に則って仕事をするための仕組みの元で彼らが働くことは、たとえそれがあったとしてもほとんどの場合不可能であるということを示す
であろう。
ほとんどすべての機械
工の技術において、各作業員が行う仕事の基盤となる科学は、きわめて重大であり、実際仕事を行うのに向いている作業員でも、工員またはその上に立つ人の援
助と指導がなければ、この科学を完全に理解することはできない。なぜなら教育が足りないか、あるいは知力不足だからである。テイラーは以上のことを普遍的
原理として主張しようと考えている。(この論文の後半でその事実を証明するような実例を挙げて説明
するつもりである)科学的法則にのっとって作業が行われるようにするためには、通常の管理形態には
ない作業員と管理者間の責任の分担を行うことであり、それはとても重要なことである。管理者たちはこの科学を発展させることが義務であるが、同時にこの科
学の下で働く作業員を指導、援助すべきであり、その結果に対しては多大な責任を負うべきである。現在の管理法においては、管理者はこの点について責任を十
分負っていない。
この論文の中心は明ら
かで、科学的法則に従って仕事をするためには、今までは工員に任せてあった仕事を管理者が引き継いで、実行をするべきである。
どんな行動でも工員が
これを行うより先立って、管理者の準備行動が、少しでも、行われていなければ、工員に任せた場合より多少でも、速くよく仕事をさせることはできない。そし
て各工員は、今までのように、上司に強要されたり、自力の工夫によって仕事をさせられるかわりに、毎日その上長によって教えられ、親切な援助を受けるべき
だ。
このように、距離が近
く、親密で個人的な管理者と労働者との間での協力こそが近代科学管理法の本質である。
一連の実践的な説明を
通じて、有効な協力ができ毎日の負荷を均等に分担することで、(上述されたような)重大な障害の全てがなくなり、工場内の各作業員と各機械は、最大の生産
高を得ることになるだろう。旧型の管理の下に働いて受け取る賃金よりも、作業員の賃金が30パーセ
ントから100パーセントも増加し、また管理者と日々親しく接触していれば、怠業のすべての原因は
完全に取り除かれる。そして、数年後に、このシステムの下では、解雇する代わりにより多くの人に雇用を与えることと、一人当たりの生産高が大きく増加する
というおかしな教訓を、作業員は以前目の当たりに見ることができる。そして一人当たりのより大きな生産高が、解雇につながるという誤りを完全に根絶する。
そして、各人と各機械
が最大の生産高を得る事の重要性を、作業員だけではなく、社会の各階級のものに、書いたり話したりして教育すべきであり、この重大な問題を最終的に解決す
ることができるのは、現代の科学的管理の採用だけである、というのが著者の判断である。たぶん、この論文の読者の大部分は、このすべてが机上の空論である
と言うだろう。しかしそれどころか、科学的管理の理論や哲学は理解され始めている段階であり、一方で管理そのものはおよそ30年間に渡り進歩をとげてき
た。そしてその間、様々な範囲と種類の産業界の会社が、次から次へと次第に普通の管理法から科学的管理法へと切り替えていった。アメリカで少なくとも5万
人の作業員がこの制度の下で雇われている。彼らは周囲にいる同じ特性の人たちより30%から100%も多い日当を受け取っている。一方、彼らを雇っている
会社は以前より繁栄している。これらの会社は人間一人あたりおよび機械一台あたりの生産高が平均して倍増している。この間、このシステムの下で働いている
労働者の間にストライキは全くなかった。普通の管理法の特徴は労働者たちが疑いの眼差しで物を見て、多かれ少なかれ公然と敵対してしまうことである。それ
に代わって、(科学的管理法では)経営側と労働者側の間でいたるところで友好的な協力関係がある。
いくつかの論文は、科
学的管理法のもとで採用された手段や発達した項目、普通の管理法から科学的な管理法への変化を取り入れたステップを書いている。しかし不幸にもこれらの論
文の多くの読者が、本当の本質の仕組みを誤解していた。科学的管理法は基本的に、広い一般的原理、ある特定の哲学から成り立っており、多くの方法に適応す
ることができる。また、それらの一般的原理を適応するための最善の手段と考えている人が、決して原理そのものと混同することはない説明からも成り立ってい
る。
従業員や企業の問題全
てに対するたった1つの解決策は存在しない。怠ける人や効率の悪い人もいれば、欲深く無慈悲な人がいる限り、また不道徳や悪事が私たちにある限り、特定の
貧困や苦悩、不幸が存在する。人や組織をコントロールする中で、従業員か企業の一方が永続的に繁栄することを保証することができる管理システムのたった1
つの方法はない。
繁栄を左右する要因は
たくさんある,その中で数人一州または一国の力ではどうすることもできないことが多い,よって多少は我慢しなければならない時期がある。
ただし科学的管理法を
実行していれば、その中間の時期が普通の管理法よりも利益が多く,幸せで不一致,意見の相違が少なくなる、また不景気の回数は少なくなり、また短くもなる
ことにより損失も少なくなるだろう。ある町や州が従来の自分量式をやめて科学的管理法の原理を実行した場合は、特にそうである。
早晩以上のような原
理は、文明化した社会を通じて一般に実行されるようになると著者は確信しており、そしてその実現が早ければ、人間の幸福になると信じている。
第2章
科学的管理法の原理
著者は、科学的管理
法に興味を持った者の心中に生まれる、当然の三つの疑問を見つけだした。
1つめ、科学的管理法の
原理が通常の管理のそれらと、どこに本質的違いがあるのか?
2つめ、異なった形式
のもとでより科学的管理法のほうが、なぜ良い結果を成し遂げられるのか?
3つめ、会社の首脳とし
て相応しい人物をまねくことが、最も重要な問題ではないだろうか? 相応しい人物をまねいたならば、管理方法の選択はその人物に安心して任せられないだろ
うか?
次ページ以降に書かれ
ている主要対象のうち一つが、このような疑問に十分に答えてくれるだろう。
通常の管理の最もすば
らしい形式
科学的管理法、もしく
は簡単に「課業管理」、の説明を始める前に、著者が信じていることが、一般的に使われる最も良い管理の形式であるということを述べることが望ましいと思わ
れる。そうすることによって通常の最も良い管理と、科学的管理の間の大きな違いは完全に正しく理解されるだろう。
500から1000人の労働者を雇う産業の施設では、多くの場合少なくとも20か
ら30の異なった職が見られるだろう。これらの職のそれぞれの労働者は、自らの職が、はるか遠い先
人たちが多くの異なる職の初歩を実践したような初期の時期の状況から、それぞれの人が比較的に小さい部類の仕事を専門とする、現在の労働が細分化されたよ
うな優れたそして発達した状態へと発達するように、多くの年月をかけて自らの知識を口述で伝えてきた。
各世代の器用な人々
は、あらゆる職の中の作業のあらゆる要素を実行するためのより迅速でより良い方法を発展させてきた。このように各々の職が始まって以来発達してきたアイデ
アの中で残存した最適、最良のものを表しているので、現在用いられている方法は最適であり最良と言われるかもしれない。しかしながら、これは広い意味で真
実であるけれども、これらの職各々を親密に熟知する人々だけが、どの職のどの要素でも用いられている方法はほとんど統一性がないという事実に完全に気付い
ている。一般に標準として受け入れられる一つの方法だけが用いられるのではなくて、仕事の各要素を行う50も100も異なった方法があり、それらが日々用いられているという。そして少し考えればこれは必然的にそうなる
に違いないのだが、それらの方法が口述で人から人へ渡ってきた、あるいは最も多くの場合、知らず知らずのうちに人の観察を通して学んできたものなので、同
じ仕事にいろいろなやり方があることは明確であろう。実際に、それらが成文化されたり、体系的に分析されたり、記述されたことはない。長年の各世代の器用
さと経験は、次の世代へとより良い方法が伝わってきたことは疑いもないところだ。この経験から得た方法や伝承の知識の集まりは、各職人の主な所有物であり
財産と言えるかもしれない。今、通常の管理の大半で管理者は、20から30の職に従事する500人から1000人の労働者の大半が、管理者が持っていない多数の伝統的知識を持っているという事実をはっきりと受け
入れている。もちろん管理者は、その仕事ではたいていの場合一流の労働者もである、監督と職長を含む。そしてさらに、これらの監督と職長は他のだれよりも
よく、自分自身の知識と個人の技術が、彼らの下の全ての労働者の知識と巧妙さを組み合わせたものよりもはるかに不足しているということを知っている。最も
経験のある管理者はそれゆえ、あからさまに労働者に最高の・最も経済的な方法で仕事をするよう任せてしまう。管理者の仕事とは、それぞれの労働者が、その
最高の努力・最も厳しい仕事・すべての伝統的知識・技術・巧妙さ・好意によって、できる限り大きな利益を雇い主に与えるようイニシアティブ(訳注:自発的
な貢献)を発揮する気にさせることなのである。管理者の前にある課題とすなわち、すべての労働者の最も良いイニシアティブを発揮させることだ、と簡潔にい
うことができるかもしれない。ここで著者は、その人から見つけ出されるすぐれた才能の全てを含むものとしてイニシアティブという言葉を広い意味で使ってい
る。
その一方で聡明な管理
者の中で、労働者が普段雇い主から受け取っているより多くの賃金を与えられていないのに、労働者たちに十分なイニシアティブを発揮させることができる、な
どと考える人はいない。この論文の読者の中でも、管理者だったかあるいは仕事に従事してきた者だけが、平均的労働者たちが雇い主に完全なイニシアティブを
捧げるというにはどれだけほど遠い状態か、を実感しているはずである。20の製造組織のうち19で、労働者たちは雇い主に最適なイニシアティブを捧げることが、直接彼らのためにならないと信じていると
いうこと、そしの可能な限りの労働量と最良の労働の質で雇い主のために一生懸命働く代わりに、彼らがすばやく働いていると信じさせようとする一方で、彼ら
は敢えてしているのと同じくらいゆっくり、慎重に働いている、と述べるのはまったく的確なことである。(注)
〔脚注:著者はこの適
切でない事態の根拠を、「工場管理」という題の論文ではっきりさせようとしていた。これは、アメリカ機械工学学会で発表された。〕
したがって、筆者は繰
り返す。管理者は労働者のイニシアティブを手に入れようとするために、与えられた標準的な仕事を超えた労働者には、いくらか特別なインセンティブを与えな
ければならない。このインセンティブは、いくつかの異なる方法で与えることができる。例えば、早い昇進、昇給の希望、つまり、ある種のよいまたは早い仕事
には、普通に与えられているよりも高い賃金(寛大な出来高払いの報酬、賞金、またはボーナスのどちらでも)や、短い労働(よい環境と仕事条件)などが与え
られる。とりわけこのインセンティブは、彼の労働者のための個人的な考えや、友好的な付き合い、つまり彼の下にいる労働者の幸福に、本物の思いやりのある
関心を持つことのみからくるものであるはずだ。雇用者が、およそでさえ労働者のイニシアティブを得る望みをもつことができるということは、ただ、この種の
特別な報酬やインセンティブを与えることによってだけである。通常のタイプの管理の下では、労働者に特別な誘因を提供する必要性が最も関心の高いテーマで
ある、ということが一般に大変広く受け入れられている。そのために、どのような近代的な給与体系(例えば、出来高払いの仕事、割増金やボーナスのような)
を取り入れるべきかということが、管理システムの中で実質的にほとんどすべてを占めてしまっている。しかしながら、科学的管理方の下では、採用された特定
の給与システムなど、ごく下位の要素にしか過ぎないのである。
大まかに言えば、通常
用いられる管理法の中で最も優れた管理法は、労働者は自分達の最高のイニシアティブを与えて、お返しに雇い主からなんらかの特別なインセンティブを受け取
る管理法として定義されているかもしれない。この種の管理法は「イニシアティブとインセンティブ」の管理法として科学的管理法、すなわち労務管理と比較し
て言及されている。
著者は「イニシアティ
ブとインセンティブ」の管理法が、通常用いられる管理法の中で最も重んじられる管理法であると認識されるよう望んでいる。事実、この管理法よりも優れた管
理法が存在することを、平均的な経営者に説き伏せることは難しいと思っている。著者の取り組む仕事は、「イニシアティブとインセンティブ」の管理法よりも
優れただけでなく、圧倒的に優れた別の管理法があるということを完全に納得させる方法を立証しようとする難しいものである。
「イニシアティブやイ
ンセンティブ」の管理法に賛成する普遍的な偏見は非常に強いため、他のシステムのほうがより優れている事を説得できるような理論上の優位性を、平均的な管
理者に示すことは難しい。科学的管理法が他の型の管理よりも非常に優れている事を証明することは、筆者の努力次第であり、それはまさに二つのシステムの実
際の働きの流れを実際に説明することによってなされるであろう。しかしながら、根本的な原理や哲学は、与えられた全ての実際の例の中で説明されている本質
として考えられるものなのである。そして、普通の又は「おおざっぱな」管理とは異なる科学的管理法の一般原理は非常に単純であるので、実例の説明を始める
前に、そちらをまず記述することが望ましいように思われる。
古いタイプの管理法の
下での成功は、ほとんど完全に労働者の「イニシアティブ(自発的貢献)」を得ることに依存しているが、イニシアティブが本当に達成されたというのは、実は
まことに珍しいケースなのである。科学的管理法の下での労働者の「イニシアティブ」(それは彼らの熱心な労働・信頼・精巧さである)は、絶対的な均一性と
古いシステムよりも可能な限りの広い限界で達成される。つまり、労働者の一部の改善に加えて、管理者が新たな責任と新たな義務や、過去には夢にも思わな
かった信頼性を引き受けるのである。管理者は、例えば、過去には労働者に所有され、労働者が日常の作業を行うのに大変有用なこの学問の規則と法則や公式を
分類し、表にして、縮小した伝統的な学問のすべてを集めた責任を引き受ける。この方法での科学の発展に加えて、管理者は新しいものと彼らにとって重い責任
を含んだ他の3つのタイプの仕事を引き受けることになる
これらの新しい仕事は4つの項目の下で分類される。
まず第1に、それらは人の仕事の各々の要素に対する科学を発展させ、そしてそれは古い伝習的方法に取って代わる。
第2にそれらは労働者を選択しそして訓練し、指導し成長させる。一方でその労働者が過去において、自身の仕事を
選択しできるだけ精一杯自身を訓練していた。
第3に発展してきた科学の原則に従って為される仕事のすべてを保証するために、それらは人と非常によく協同す
る。
第4に管理者と従業員達との間に仕事と責任のほとんど同等の分配がある。管理者は、従業員よりも適している仕事
のすべてを引き受ける。その一方で、過去において仕事のほとんどすべてや責任のより大きな部分は従業員に押し付けられていた。
古くから、計画よりも
科学的管理をよりずっと効率的にしているのは、管理者によってなされる仕事の新しい種類と結びついている従業員のイニシアティブのこの組み合わせである。
これらの要素のうち3つは小さく基本的な方法での「イニシアティブとインセンティブ」の管理の下、多くの場合に存在するが、それ
らはこの管理の下にあり、それほど重要でない。一方で科学的管理法の下それらは体系全体のまさに本質を形成する。
これらの要素のうちの
第四番目である、「管理者と従業員との間の責任のほとんど同等の分配」には、更なる説明が必要である。イニシアティブとインセンティブを管理することの哲
学によって、各々の従業員は、一般の計画や自分の仕事のそれぞれの細目に対するほぼ全体の責任だけでなく、多くの場合、なおその上に自分の実行に対する責
任を負うことが必要とされる。これに加えて従業員は、現行の肉体的労働の全てをしなければならない。一方、科学の発達は、個々の従業員の判断に取って代わ
る、また体系的に記録され、連動された後にしか効果的に使われることのできない多くの規則、法則、公式の確立を必要とする。科学的なデータを実際に使用す
ることはまた、その帳簿や記録(注)などをつけるための部屋や計画者が仕事をするための机が必要である。
[脚注:例えば、普通
の機械工場において科学的管理の下で使用されたデータを含む記録は、何千もの書物を満たす。]
このように、古いシス
テムのもとにあった計画のすべては、個人の経験の結果として労働者によってなされ、新しいシステムのもとの必要性の不可欠なものは科学の原則との調和にお
いて管理によってなされる。すなわち、労働者が発展と科学データの使用によく適応したとすれば、物理的に労働者にとって、機械とデスクで同時に働くことは
不可能であろう。また、ほとんどの場合において、あるタイプの人間が、前もっての計画をたてるのに必要とされ、そして、全く異なるタイプの人がその仕事を
実施する。
計画室にいる人は、そ
の科学的管理法のもとの専門は計画され、例外なく、その仕事は熟練の解体によってより良く、より経済的に行なわれうる。すなわち、それぞれの熟練工のそれ
ぞれの仕事は例えば、ほかの人間によってなされる様々な予備の仕事に上位にたたれるということである。そしてこのすべては私たちが言ってきたところの「ほ
とんど同じの責任の部門と管理者と労働者の間の仕事」を含む。
要約すると、「イニシ
アティブとインセンティブ」の管理のもとで、実際に全体の問題は「労働者の責任」である一方、科学的管理法のもとで少なくとも問題の半分は「管理者の責
任」なのである.
おそらく、現代の科学
的管理法の最も重要な一つの要素は、職務についての考えである。あらゆる労働者の仕事は少なくとも1日前もって経営者によって十分に計画されており、ほと
んどの場合、どの人も仕事をするにあたって、慣れている同様の方法での達成すべき職務が詳細に書かれた指示を受けとる。そして、このように前もって計画さ
れた仕事は、上記のとおり、打開すべき職務が労働者だけでなく、ほとんどすべての場合で労働者と経営者の共同の努力によって構成されている。この職務は、
すべきことだけでなく、どのようにすべきか、職務をするのに与えられた時間までもが細かく指定されている。そして、その労働者が正確に、与えられた時間制
限内に彼の職務を行えた時はいつでも、通常賃金に30%から100%
の追加賃金をもらえる。これらの職務は、慎重かつ優れた仕事が遂行するのに求められているが、しかし労働者が健康に害を及ぼす速さで働くよう、決して求め
ているわけではないということをはっきりと理解してもらえうるように、入念に計画される。この職務はいつも非常に規定されているため、自分の仕事にかなり
適した人が何年もの長い期間、この調子ではたらく間はうまくやれ、働かされすぎない限りより幸せでより豊かになれるだろう。主として、科学的管理法は、本
来これらの職務を準備すること、実行することにある。
恐らくこの論文の殆ど
の読者にとって、古い管理法と新しい管理法を区別する四つの要素が最初に単に大げさなフレーズのように見えるだろうと、著者は十分に理解している。そして
彼は、それらの存在を知らせるだけで読者にそれらの価値を納得させられるかどうかが、まったく分からないと再び言うだろう。説得力がある話になるという彼
の望みは一連の実際的な実例を通して、これらの四つの要素の物凄い力と効果を明示することに基づく。最初に、それらの要素はすべてのクラスの仕事、最も基
本的な仕事から最も複雑な仕事に、完全に適用できることが示されるだろう; そして、二番目に、
それらが適用されている時、結果は必ずイニシアティブとインセンティブの管理の元で達成することができる結果より圧倒的にすばらしいに違いない。
最初の説明は銑鉄の処
理の例であり、この仕事は人間によって行われる労働で、最も雑な作業で単純な仕事の形態の典型的なものであるため、選ばれた。この仕事は人間の手以外の道
具を必要としない。銑鉄処理者は身をかがめ、約92ポンドの重みの金属の塊を持ち上げ、数フィート
あるいは数ヤード歩き、そしてそれを地面、あるいは積荷の上にのせる。この仕事は、その性質において最も雑で単純な作業なので、人よりもより有能な銑鉄処
理者になるように訓練された賢いゴリラでもこの仕事はできると、筆者は堅く信じている。しかし、銑鉄処理の科学はとてもすばらしく、とても高いものに達し
ているので、このタイプの仕事に最も適した人であっても、この科学の原理を理解することは不可能であり、あるいは、熟練者の手助けなしにこれらの原理にし
たがって仕事を行うことさえ、できないということが示される。そして、更なる例により、以下のことを明らかにするだろう。つまり、ほとんどすべての機械的
な技術において、各作業員の活動の基礎にある科学はとてもすばらしく、とても高いものに達しているので、実際この仕事をするのに最も適した作業員はこの科
学を理解することができない(教育の欠如のため、あるいは不十分な知的能力のため)。これは一般的な原理として知られており、この真実は、もう一つの説明
の後、明らかになるだろう。銑鉄の処理においてこれら4つの要素を示した後、機械技術の面でさまざまな仕事へのそれらの対応のいくつかの説明が、もっとも
簡単なものから始まり、より複雑な労働の形式で終わり、だんだんと大きな規模で与えられるだろう。
著者がベツレヘム製鉄
会社に科学的管理法を紹介し始めたとき、私たちによって始められた初めての仕事の一つは銑鉄を処理することだった。スペイン戦争の始めに、工場に隣り合う
広々とした場所に置かれた約80,000トンの銑鉄が見つかった。銑鉄の価格はとても安かったので
売って利益を得ることはできず、それゆえそれは蓄積された。スペイン戦争が始まると同時に銑鉄の価格は上昇し、この大きな鉄の蓄積は売れた。このことによ
り、工場のオーナーや経営者だけでなく工員たちにも、とても初歩的な種類の仕事をすることで、旧式な日払い労働や出来高払いの仕事以上の莫大な利益をあげ
られることを示すよい機会を私たちは得られた。
ベツレヘム製鉄会社は
5つの溶鉱炉を所有していて、その製品は何年間も銑鉄グループによって扱われていた。当時、このグループは約75人
の男たちから成っていた。彼らは善良で普通の銑鉄処理者であり、すばらしい職長(彼自身銑鉄処理者だった)の下で働き、そして概してこの仕事は、当時ほか
のどこにも劣らないほどはやく、安く行われた。
鉄道のスイッチは無く
なり地面が見えているが、そのすぐ横には銑鉄が山積みになっていた。荷車の一方には傾斜版が立てかけられ、男たちはそれぞれ自分たちの山から重さ約92ポンドの銑鉄を拾い、傾斜版まで持って行き、荷車の端にそれを落とす。
私たちは、このグルー
プは一人ずつ一日に平均で約12.5トンを課されていることに気づいた。私たちは、研究の後に、一
流の銑鉄処理者は12.5トンの代わりに、一日平均47か
ら48トンを扱うということに気づき、驚いた。この仕事は、私たちにはとても大きなものに感じられ
たために、私たちの研究が正しいと完全に確信するまでに、何度も調べ直さざるをえなかった。しかしながら、私たちはそれが正しいと確信した。一流の銑鉄処
理者にとって47大トンは適切な一日の仕事量であり、現代の科学的計画のもとでの管理者として私た
ちが直面している仕事は疑いようのないものであった。今まで行われていたペースである 12.5ト
ンの代わりに、一人ずつ一日に平均で47トンのペースで80,000ト
ンの銑鉄が荷車に載せられるのを見ることは私たちの義務であった。そして、彼らの間にストライキを起こさず、彼らと仲たがいを起こさず、その仕事は行われ
なければならず、彼らが古いペースである12.5トンを課せられていた時より、新しいペースである47トンを課せられている方がより幸福そうで満足していることを見ることは、さらなる私たちの義務であった。
私たちの第1段階は,
労働者の科学的選択だった。科学的管理法においては,労働者を扱う際には,一度に1人の労働者だけと接して話しかけることを原則とする。なぜなら各労働者
には自身の特別な能力と限界があり,私たちは個々の労働者達を大衆としてみなしている訳ではなく,労働者達それぞれに対して,最も効率的で良い状態を作り
出そうとしているからである。私たちの第1段階は,初めに適切な労働者を見つけることであった。そのため,私たちは現場の75人の労働者達を3日から4日にわたり注意深く観察,研究し,最後には,1日につき47トンの銑鉄を扱うこ
とのできていた4人の男性を選び出した。
その後,注意深い研究
は,これらの男性各人にたいして行われた。私たちは,彼らの実用的な経歴,そして各人の性格や癖,野心などにわたり徹底的に調べ,最終的には4人のなかか
ら,研究をスタートさせるのに最適な1人を選び出した。その男は,ペンシルバニア育ちのオランダ人で,仕事を終えて夜になると,家までのおよそ1マイル
を,朝,仕事に向かう時とおなじくらい元気よく,急ぎ足で帰る姿が見られていた。私たちは,彼が1日あたりの1.15ド
ルの賃金で,小区画地を買うことができ,また,仕事に来る前と仕事が終わった後の朝晩,自分の小さな家の壁を立てているということを調べた。彼はまた非常
に「しまり屋」であり、一ドルをとても高い価値に置き換えるという噂もあった。私たちが一緒に彼について話をしていたある一人の男が言った。「彼にとって
一セントは車輪の大きさぐらいに見える。」この男を私たちはシュミットと呼ぶ。シュミットに一日あたり47ト
ンの銑鉄を扱わせ、彼にそれを喜んででさせるように、私たちの課業を限定していった。これはつぎの通りに行われた。シュミットを、銑鉄を扱う人たちの一団
の中から呼び出し、いくぶん、このやり方について話し合った。
「シュミット、お前は
高賃金をもらう男か?」
「私はあなたの言って
いることがわからない。」
「わかってくれ。私は
お前が高賃金をもらう男かどうか知りたいだけだ。」
「あなたの言っている
ことがわからない。」
「さあ、私の質問に答
えてくれ。私が知りたいのは、お前が高賃金をもらう男なのか、それともここの安い賃金をもらっている仲間のうちの一人なのかだ。私が知りたいのは、お前が
一日に1.85ドル得たいのか、それともすべての安い賃金をもらっている仲間が得ている同じ1.15ドルで満足しているのかだ。」
「一日に1.85ドル欲しくなかっただって?高賃金をもらいたくなかったかって? いや、私は高賃金をもらいたかった
よ。」
「私を怒らせるな。も
ちろんお前も1.85ドル欲しいし、誰だって欲しいに決まっている! お前が高給取りである事と全
く関係がないことくらいわかるだろ。私の質問にしっかり答えてこれ以上私の時間を無駄にしないでくれ。こっちへ来い。あの銑鉄が見えるか?」
「はい。」
「貨車も見えるだ
ろ?」
「はい。」
「もしお前が高給取り
であるというなら明日1.85ドルであの銑鉄をあの貨車に積み込むんだ。さあしっかり目を開けて私
の質問に答えろ。お前は高給取りなのかそうではないのか?」
「明日私が銑鉄をあの
貨車に積み込めば1.85ドルもらえるんですね?」
「ああ、もちろんだ。
1年間銑鉄を貨車に積み込むことでお前は毎日1.85ドル手にすることができるんだ。それは高給取
りがしていることだ。私の言っていることがわかったか?」
「はい。よくわかりま
した。明日1.85ドルであの銑鉄を貨車に積み込みます。そうすれば毎日1.85ドルもらえるんですよね?」
「そのとおりだ。」
「はい。じゃあ、私は
高給取りです。」
「いや、ちょっと待
て、ちょっと待て。高給取りというのは、言われたことを正確に朝から夜までしなければならないことをお前も知っているだろ? お前はこの男に以前に会った
ことがあるはずだ。そうだろ?」
「いいえ。会ったこと
がありません。」
「では、もしお前が高
給取りなら、明日の朝から夜までこの男がお前に言うとおりに、まさにそのとおりにするんだ。彼が銑鉄を拾って、お前に歩くよう言ったら、お前はそれを拾
い、そして歩く。そして、彼が座って休息するように言うとき、お前は座る。お前はまっすぐ一日を通して何かその正しいことをする。そしてその上、口答えを
しない。今、高給取りはまさしくやれと言われたことをし、そしてどんな口答えもしない。それを理解できるのか? この男がお前に歩くよう言うとき、お前は
歩く;お前に座るよう言うとき、お前は座る。そして、お前は彼に口答えをしない。今、お前は明朝ここで仕事をするために来る。そして、お前が本当に高給取
りであるか否かを夜になる前に知るつもりだ。」
彼がイニシアティブと
インセンティブの管理のもとでいつものような態度で話していたらシュミットの答えはどうだっただろう? 次の通りである。
「オーケー、シュミッ
ト、お前は銑鉄取り扱いでは一流で、その仕事ぶりは有名だ。お前は一日あたり12.5トン扱ってい
る。私が銑鉄の取り扱いについて重要なアドバイス(研究)を与えれば、一日の業績を今まで以上に伸ばせるだろう。現在12.5トンではなく一日に47トンもの銑鉄を扱える
なんて考えもしないだろう?」
この問いに対してシュ
ミットがどう答えたか、おわかりだろうか?
シュミットは働き始
め、一日中、一定の休憩をとって、「金属の塊を拾って歩け。座って、休憩しろ。歩け、休め。」などと向うで見張りながら立っている男に命じられた。彼は働
けといわれたら働き、休めといわれたら休んだ。そして午後五時を半分まわったところで47.5トン
が車に積まれていた。そして実際、彼は与えられた仕事のペースを筆者がベツヘレムにいた3年間決してやめることはなかった。そして、この期間を通じて以前
はベツレヘムで決められていた1日1.15ドルの賃金以上を受け取った事がなかったけれども、その
ときから彼は1日平均1.85ドルとちょっとを受け取る事となった。それは彼が、1日の課業分を働
いてない人よりも60%も高い賃金を受け取っているという事だ。全ての銑鉄が1日につき47.5トンで扱われるようになるまで、一人また一人と選びだされ、1日につき47.5トンのペースで扱えるように鍛えられ、彼らの周りの労働者よりも60%高い賃金を受け取っていた。
筆者は科学的管理法か
らなる四つの要素のうちの三つを上記の簡単な説明を述べた。まず一つめの労働者の慎重な選択、二つめと三つめそれは科学的管理法に基づいて、まず労働者を
誘導し、鍛えたり働けるように助ける方法である。銑鉄を取り扱いの関する科学的なことについては何も言わなかった。しかしながら、筆者はこの説明を残す前
に銑鉄の扱いの科学が存在し、さらにその科学は銑鉄を扱うのに適している人ではおそらく理解できないこと、また彼らより優位に立ってこれを助ける人なしで
はその科学的な原理の元では働く事ができないことは読者も余すところなく確信しているだろう。
筆者は見習いとして鋳
型製作者または機械技術者として仕えたあと、1878年にミッドベール製鉄会社の機械工場にやって
きた。これは1873年の恐慌に続く長年の不況の終わり頃に近い時期のことであった。そのころは経
済がとても振るわなかったため、多くの機械技術者は自らの職業における仕事を得られなかった。こういったいきさつから、彼も機械技術者として働くかわりに
日雇い労働者として始めるしかなかった。ところが幸運にも工場にやってきたのちすぐに、工場の事務員が盗みをしてそのことが発覚してしまった。ほかに使え
る者がいなかった、他の労働者よりも教育を受けている(著者は大学に入学する準備をしていたので)といったことから彼は事務員という地位を与えられたので
ある。この後しばらくして、彼は旋盤の中の一つを稼動させる機械技術者としての仕事を与えられた。そして、同じ種類の旋盤で他の機械技術者が行うよりもよ
り多くの仕事をこなせることが判明したため、数ヶ月後には旋盤部を支配する持ち場の監督になった。
数年間にわたってこの
工場の仕事のほとんど全てが出来高払制だった。この国のたいていの工場では、過去もそうだったし、現状でもそのとおりである。工場は実のところ、作業員達
によって運営されている。作業員達はともにそれぞれの仕事がどれくらいの早さで行われるべきか、きめ細かく計画を立て、工場の至る所まで、丁度良い量と考
える1日の仕事量の約3分の1を上限としてそれぞれの機械のペース配分を設定している。新しく工場にきた作業員は皆ただちに他の作業員から、自分が各種類
の仕事をどれくらいすべきか正確に告げられる。そしてもしこれらの指図に従わないのならば、たちまち他の工員達によってその場から追い出されるはめとなっ
てしまうだろう。
持ち場の管理者となって間もなくすると、筆者の元へ
作業員らが続々と訪ねてきた。
「やぁフレッド、あんたが俺らのボスになってくれ
て嬉しいよ。あんたは商売をよく知っていて、俺らはあんたがもう出来高払いに飼われた豚とは違うって承知しているよ。あんたは俺らの側につきな。そしたら
全ては上手くいく。だがな、もしあんたが俺らの期待を裏切ろうってなら、俺らはあんたをこの職場から追い出してやる。」
筆者は、今自分は管理者の立場にいて、日々の旋盤
の仕事を公明正大に成す為に何でもする覚悟だ、と率直に述べた。この発言は、直ぐに争いを招いた。多くの場合は、作業員らと筆者は知り合いであったため、
争いといっても好意的ではあったが、それでもやはり争いは争いであり、時間が経つにつれ状況はより悪化した。面倒な争い事もあった。筆者は、持ち場の作業
員らが日々の仕事を順調にこなす様、考えられる限りの手を打った。例えば、変化を拒否する頑固な作業員に対し解雇や給与削減を命じたり、また、出来高の比
率を減らした上で、経験の浅い人物を雇用し、その方法を学んだら公平な一日分の仕事をすると約束させた上で、どのように仕事をするかを個人的に指導したり
した。
彼らは、生産高を増や
そうとした全ての者に対して、仕事の内外を問わず圧力をかけ続け、その結果、彼らは他の者と同じくらいの生産高をあげることを強いられるか、または、仕事
をやめていった。このような経験をしていないものは誰も、争いによって生み出される苦さを思いつくことはできない。この種の争いにおいて、労働者はたいて
いの場合において効果的なある手段をとる。彼らは、巧妙さを利用して、作動させている機械が明らかに事故か、または、一定の仕事の成り行きにおいて、壊れ
ダメージを受ける様々な方法を考えた。また、機械がだめになったのは、常に無理に機械を動かすことを強制させた職長のせいだと主張した。工場において全て
の労働者の結集した圧力に対して抵抗できる職長はほとんどいない。この場合のように、問題は工場が一日中操業しているという事実によって、より複雑になっ
た。
筆者は二つの利点を
もっていたが、それらは常勤の職長は所有されておらず、また、これらは不思議なことに彼が労働者の息子ではないという事実から生じたのであった。
第1に、彼が偶然にも仕事の監督者ではないという事実のために、企業の持ち主は実際には他の労働者よりも彼の方
が仕事に関心があると信じており、それゆえ彼らは彼に管理されている作業員の言葉よりも彼自身の言葉をより信頼していた。そのため、作業員が管理者に無能
な監督が酷使したために機械が壊れてしまったと報告した時、管理者は筆者の言葉を受け入れ、彼が未だ続いている出来高払いの仕事争いの一部として作業員た
ちが機械を故意に故障させたと言った時、彼は筆者に作業員の一部が行ったこの破壊行為に関する最良の回答を提供することを認めた。すなわち「この工場では
もう機械に故障は起きないだろう。もし機械の一部が壊れたならばそれに関わった労働者は少なくとも修理費用の一部を負担しなければならないし、またこの方
法で集められた罰金は全て貧しい労働者を助けるために相互扶助団体へ渡されるだろう。」このことによりすぐに機械を意図的に壊すことは抑えられた。
第2に、もし筆者が従業員のひとりであり彼らの住んでいた所に住んでいたなら、彼らは抵抗も出来ないであろう社
会的圧力を彼にもたらしたであろう。彼は、通りに出ればいつも「非組合員」やその他の品のない言葉で呼ばれ、彼の妻は侮辱され、そして彼の子供は石を投げ
られたであろう。一度か二度、彼は、数人の労働者の友人におよそ2マイル半の線路沿いの孤立した道を歩いて家に帰らないように忠告された。彼は、もし彼が
この行為をし続ければ生活の危険を冒すだろうと伝えられた。しかしそのような場合、臆病なところを見せると危険は減らず、むしろ増加しやすいので、著者は
毎晩その線路を通って家に歩いていくつもりだったと工場で他の工員に話すように数人の友人に言った。つまり彼はいかなる種類の武器も決して持ち運ばず、持
たず、彼らは撃つことができ、そして・・・・・。
このような努力の3年
後、機械の生産高は非常に増加し、多くの場合2倍になった。そして、その結果著者は様々な班長を経験し、ついには工場の職長になるまで昇進した。しかしな
がら、心の正しい人は、この成功は周りの人々との奮闘した結果に対する報酬などとは思わない。他の人との連続的な奮闘の人生は、ほとんど生きる価値がない
のだ。労働者の友人は、彼らの利益のための生産高の増やし方を教えてくれ、と友人として著者のところに絶えずに尋ねてきた。しかし正直な人なので、彼はも
し、自分が彼らの立場ならば彼らがやっているように生産高を増やすことには反対するだろうと言った。なぜなら、出来高払い制では仕事をたくさんしても、現
在稼いでいるのと同じくらいしか稼げないからである。
職長になってすぐに、
管理システムを変えるために決然と努力することにした。その結果、工員と経営者がお互いに敵意を持つ代わりに、同等の利益をえることになった。これは、3
年後にアメリカ機械工業学会に提出された「出来高賃率制('A Piece-Rate System')」
「工場管理('Shop
Management')」というタイトルの論文に示された、ある種の管理の始まりという結果をもたらした。
この制度の考案中に、
管理者は工員が一日になすべき仕事の量について全く把握していないことが、労使協調を妨害する大きな原因であると、著者は認識した。また、著者は工場の職
長であったが、彼の部下の知識と技術が、著者のそれの十倍ほどあることも認識していた。そこで、様々な仕事に要する時間を精密かつ科学的に研究するため
に、当時ミッドベール・スチールの社長であったウィリアム・セラーズに資金を提供してもらった。
セラーズがこの資金提
供を許可したのは、著者が工場の職長として工員の作業効率を向上させるという成績をあげたことへ褒美という意味を付したのであって、他に意味があるもので
はなかった。それどころか彼は、このような研究はいかなるものであっても、大きな成果をあげることは無いと思っていた。
この時に行われたいく
つかの調査の中に、一日に行うべき仕事がほどよく適しているあらゆる種類の重労働従事者の仕事量とはどのくらいかを職長が前もって知ることができるように
する、つまり、一流に値する労働者の重労働による疲労の影響についての規則や原則を見つけようと試みたものがあった。私たちの第一歩は、英語、ドイツ語、
そしてフランス語で書かれた題材すべてを調べるために若い大学卒業生を雇うことだった。2種類の実
験が行われていた。ひとつは、人間の耐久性について研究している生理学者によるものであり、もうひとつは馬力と人力の比較測定をしようとしている人間管理
専門家によるものである。これらの実験は主に、おもりが吊るされたウィンチのクランクを回転させることで荷物を持ち上げる人と、それから他に、歩いたり、
走ったり、様々な方法によっておもりを持ち上げることに従事する人によって行われた。しかし、これらの調査による記録は、重要な法則がそれらからは何も推
論できないような、非常に乏しいものであった。それゆえに、私たちは独自に一連の実験を始めた。
自分が肉体的に強壮で
あると証明し、またまじめな二人の労働者が選ばれた。彼らにはこの実験の間、2倍の賃金を支払い、
彼らには、常に懸命に働くように命じた。そして彼らが怠業するか、しないか、時々いくつかのテストを行った。そして、彼らのうちどちらかが私たちを欺こう
とした時には、その者は解雇される。彼らは観察されている間じゅう、懸命に働いた。
これらの実験において、私達は一人の人間が短期間の
努力の集中や数日の間に行える最大の仕事を見つけようとしたわけではなく、一流の労働者の丸一日の仕事、すなわち一人の人間がおそらく年中行うことがで
き、うまくやっていける最高の一日の仕事がどんなことで実際に構成されているかを知るための試みであるということが、はっきり理解されなければならない。
これらの男性はあらゆる種類の課業を与えられ、これらの男性は、実験を実施しながら、男たちの行った動作の正確な時間をストップウォッチを使って書き留め
ている、若い大学生の緻密な観察のもとで毎日行われた。どんな形であれ結果に影響があると我々が考えた、仕事に関係するあらゆる要素は、慎重に観察され、
記録された。我々が最終的に計測したかったことは、一人の人間が出せるのは何分の一馬力か、すなわち、何フィートポンドの仕事を人間は一日に行えるのかと
いうことである。
その結果、この一連の実験を完了した後、各日の各々
の仕事はエネルギーであるフィートポンドに変換された。そして驚いたことに、一日に人間が出したエネルギー量とその仕事が疲労させる効果の間には一定の関
係がないということがわかった。ある仕事においては、8分の1馬力以下程度の作業で疲れきってしまうこともあれば、また他の仕事では2分の1馬力程度の作
業を行えることもあった。
したがって、一流の労働者の作業を最大限にするよう
に正しく導く法則を発見することは失敗した。
得られた多量の貴重なデータによって、様々な労働の
適当な一日の作業量を知ることができた。だがその時、求めていた正確な法則を見つめるためにさらにお金を使うことは賢明ではなかった。しかし数年後、その
目的のためにもっとお金が使える時に二回目の実験を行い、前の実験と似ていたが、より徹底して行われた。
でもその二回目の実験は前の実験と同じく、貴重な
データは得たが、法則を発見することにならなかった。再び数年後、三回目の実験を行った。そして今回は実験を完璧にしようという試みにおいて、私達は努力
を惜しまなかった。とにかく問題に影響する要素は全て一つ一つ注意深く観察して書きとめられた。大学生二人がこの実験に、およそ三ヶ月の間関った。これら
のデータは再び一人一日あたりのフィートポンド単位のエネルギーに変換されると、人間の働く馬力(すなわち、一日あたりのフィートポンド単位のエネル
ギー)と、労働が人間に与える疲労による影響との間には関係性が全く無いことが完全に明らかになった。しかしながら、筆者は一流の労働者の一日の労働を構
成するものについて、ある明確な法則が存在していることを相変わらず強く確信しており、私達のデータは細心の注意を払って収集され記録されていたので、彼
はこの記録のどこかに不可欠な情報が含まれているということを確信していた。そのため、この収集された記録から法則を展開するという問題は、私達の中で最
も優れた数学者であるカール G. バース氏に託された。私達は労働の各要素を座標曲線に描くこ
とで視覚的に表現するという新しい手法を用いて、この問題を詳しく調べることにしたのだ。というのも、この手法によって私達は、いわば各要素の鳥瞰図を得
ることになるからだ。そして、比較的短期間でバース氏は重労働が一流の労働者に与える疲労による影響に関する法則を発見した。そしてその法則は、これまで
何年間も発見されはっきりと理解されることが無かったことが不思議であるほど、単純なものであった。そのバース氏によって発見された法則は以下のようなも
のだ。
この法則は、人間が疲れ切ってしまい、能力の限界に
達するような部類の仕事に限定されたものである。早足の調教を受けた馬の仕事というより、むしろ荷馬車馬の仕事に相当する重労働の法則である。事実そのよ
うな仕事はすべて、人間の腕の力で重いものを引いたり押したりする、つまり、何か両手に握ったものを持ち上げたり押したりする動作で人間の力が使われるこ
とによって成り立っている。またこの法則は、労働者が腕で引いたり押したりするため、一日当たり限定された割合の仕事しか負担することができないというも
のである。例えば銑鉄を扱う際(各重量は92ポ
ンド)、一流の労働者ですら一日のうち43%
未満の時間しか作業することができない。彼は一日の労働時間のうち57%は、完全に銑鉄の作業を休
むべきである。荷の重さが軽くなるにつれ、彼が一日のうちに負担できる仕事量が増えることになる。なので、仮に労働者が扱う銑鉄の重さを半分の46ポンドにすれば、一日のうち58%の時間は作業を
負担することができ、42%の間だけ休むことになる。荷の重さが軽くなるにつれ、彼が一日に作業で
きる時間の割合が大きくなり、一日中自身の手によって運んでいても、最終的に仕事が達成されるまで、疲れ果てることがない。この特徴に到達すると、この法
則はもう労働者の耐久性を導き出すための有効なものではなくなり、人間の仕事に対する能力を明らかにする他の法則が見出される必要がある。
労働者が92ポ
ンドの重さの銑鉄を手に持ち運んでいるとき、彼はその塊をただ持ち立っているときとそれを持ち歩くときとで同等程度疲労する。なぜなら、彼の腕の筋肉は彼
が動いていてもいなくても同じ程度の緊張状態にあるからだ。しかし、荷物を持ちただ立っている労働者は少しも馬力を使っていない。そして、このことが様々
な種の重労働において、使われるフィートポンドと労働者を疲れさせる仕事の効果との間に何の一定の関係も明らかにされないという事実の根拠となる。また、
この種の全ての仕事では、頻繁な間隔で労働者の腕は完全に労働から離れる必要がある、つまり、労働者は休息を取る必要がある事も明らかになる。労働者が重
労働に従事する時間を通して、彼の腕の筋肉組織は退化していく。そのため、血液がこれらの組織を通常の状態まで回復させる機会を得るために頻繁な休息期間
が必要とされる。
ここで、ベツレヘム製鉄会社で銑鉄を扱う労働者の話
に戻ろう。もしシュミットが、銑鉄を扱う要領や技術を理解している人物の指導や指示なしで、47ト
ンの銑鉄の山を運ぶように割り当てられたならば、高い賃金を稼ぎたいと欲していても、おそらく日中の11時
か12時までに疲れ果ててしまっただろう。もし彼がずっと働かされ続け、彼の筋肉が回復に必要な適
当な時間の休みを与えられなかったら、彼は日中の早い時間に完全に疲れ果てただろう。しかし、この法則を理解した人物が、適切な間隔で休憩をとる習慣を身
に着けるまでずっと、日々彼を監督し仕事の指示を与えることで、彼は過度に疲れることなく一定の進行で働くことができた。
正規の仕事として銑鉄を扱うのに適した人物に必要な
第一条件の一つは、その人物がとても愚直で粘り強いというものであり、他のどんなタイプの人物より精神的な気質がほぼ雄牛に似ているということである。ま
さにこの理由によって、精神的に機敏で知的な人物は、この種の仕事の持つ退屈な単調さというものにまったく適さないのである。それゆえ、銑鉄を扱うのに
もっとも適した労働者は、この種の仕事を行うための真の科学を理解することができない。彼はとても愚かなので、「効率」という言葉は彼にとって何の意味も
ない、従ってうまくできるようになる以前に、彼はこの科学の法則に従って働く習慣を身に着けるように、彼自身よりも知的な人物によって訓練されなければい
けない。
著者は、よく知られている最も典型的な仕事の形態の
場合でさえ、そこには科学があるということは明らかであると確信している。その場合とは、その仕事に最も適した人間が慎重に選ばれ、労働の科学が発展し、
慎重に選ばれた人間がこの科学どおりに働くように訓練されたときである、このときの結果は、「イニシアティブ(自発的貢献)とインセンティブ」の計画のも
とで起こりうる結果よりも圧倒的に重要である。
しかしながら、もう一度これらの銑鉄を扱う労働者の
事例に戻って、通常の管理のもとでは同じような結果を得ることができなかったのかどうかを見てみよう。
著者は多くの有能な管理者の前に問題を提示し、割増
制の仕事や出来高制の仕事、その他通常の管理計画のもとで、一人一日につきおおよそ47トンの銑鉄
を運ぶことができるかどうか尋ねたが(注)、通常の方法で18から25トン以上の銑鉄を運ぶことができると言ったものは誰もいなかった。ベツレヘムの労働者たちは、一人につき12.5トンしか運べなかったことが思い出されるだろう。
[脚注:一流の労働者が、一日で47.5トンの銑鉄を地面から貨車へ運ぶことができるという主張の正確さについては、多くの人々が疑問を抱い
てきた。したがって、そのような疑い深い人のために、この仕事に関連した資料を以下に示しておく。]
まず、私達の実験は以下のような法則があることを示
している:銑鉄を扱うような仕事に適した一流の労働者は、一日の労働時間の42%は仕事をこなすこ
とができ、58%は仕事を休まなければならない。
次に、空き地に置かれている銑鉄の束から、これらの
束に隣接する線路に停めてある貨車に銑鉄を載せる労働者は、一日当たり47.5トン(1トン当たり2240ポンド)を運ぶべきである(そしていつも彼らはその量を運んでいた)。
銑鉄を載せる作業に支払われる賃金は1トン当たり3.9セントで、その仕事に就く労働者に支払われる賃金は1日当たり平均1.85ドルであるが、一方、昔、彼らは一日当たりたった1.15ド
ルしか支払われなかった。
これらの事実に加え、以下が示される:
一日当たり47.5ト
ンは106,400ポンドの銑鉄に等しい。
1個の銑鉄が92ポ
ンドだと、一日当たり1156個の銑鉄に等しい。
一日の仕事量は、一日の労働時間600分に0.42をかけた252分の仕事量に等しい。
252分を1156個
の銑鉄で割ると1個の銑鉄では0.22分の仕事量に等しい。
銑鉄処理者は0.006分
に1フィートの速度で歩いている。荷車と銑鉄の山との平均距離は36フィートであった。しかしなが
ら、傾斜板に到達するとすぐに、銑鉄処理者の多くが銑鉄を持って走ったというのは事実である。彼らは荷車に積んだ後も板を走り降りたのだった。したがっ
て、実際に銑鉄を積み込んでいる時、彼らの多くは0.006分に1フィートの速度よりも速く動いて
いた。実際、10〜20の銑鉄を積んだ後
に、彼らはたいてい座って休みを取らされた。この休みは、荷車から銑鉄の山に戻る時間に加えた時間だった。47.5ト
ンの銑鉄を積み込む可能性に懐疑的な人々の多くは、男たちが銑鉄の山へ歩いて戻っている間に完全に荷から開放され、それによってその間に筋肉に回復の機会
があったということに気づかないであろう。荷車から銑鉄に36フィートの平均距離を、男たちが毎日
荷を持って約8マイル歩き、荷なしで8マイ
ル歩いたということは注目されるだろう。
もし誰かこれらの数字に興味を持った人が、それらを
互いに様々な方法で掛けたり割ったりしたとしても、その事実の全てが述べられた通りであるということがわかるだろう。
しかしながら、この事
柄についてより詳しく説明すると、人間の科学的選択によって1日当たり47.5トンを身体的に扱える者は、75人いる銑鉄担当のなかのたった1/8であった。善
意で述べると、8人の中の他の7人は、この
ペースで働くことは身体的に不可能であったのである。しかしながら、この作業をすることが可能であった1人
の人間は、決して他の仲間の誰かよりも優れていたわけではない。彼は単に力の強いタイプの人間であっただけであり、人類の例として珍しくなく、見つけだす
ことが難しいわけでもなく、それゆえにとても価値があるのである。それどころか、彼は大抵の労働作業に適応できないほど愚かだったのである。したがって人
間の選択は、並はずれた個人を探し出すことを意味するのではなく、単に、とても平凡な人間の中から特にこの手の仕事に向いているわずかな人間を探し出すこ
となのだ。この特定の労働者の一団では、8人のうちたった1人
しかその作業に向いていなかったが、必要な人間すべてを探し出すことにわずかな困難もない。その作業にまさしく適する人間を、その職場の中や近隣の国から
探せばよいだけなのである。
イニシアティブとインセンティブの管理のもとでは、
管理の姿勢とは労働者達に仕事を教えるというものである。では、古いタイプの管理のもとではどのようなことが見込まれるのであろうか。労働者達は、銑鉄処
理の仕事を自らきちんと選ぶのであろうか。
彼らは自分たちの持ち場から選んだ8人のうち7人を取り除き、残った8人目だけを維持しようとするのだろうか? そうではない! しかも労働者達にきちん
と自分たちで仕事を選ばせる方法が考え出されていないのである。たとえ労働者達が高い賃金を手に入れるためには自ら仕事を選ぶ必要があると十分に理解して
いたとしても、(実際、彼はこの必要性を把握するに足りるほど知的ではないのだが)すぐそばで一緒に働いている友人や兄弟達がこの種の仕事に適していない
がゆえに一時的に仕事を追い出されているという事実が、労働者達が自らきちんと仕事を選ぶのを完全に妨げてしまうだろう。つまりそれは、持ち場の8人の中
で銑鉄処理の仕事に適していない7人を取り除いているのと同じことなのである。
次に、重労働の科学に沿うかたちで、古いタイプの管
理のもとで銑鉄処理者達に(彼らがきちんと選抜された後で)働くように勧めるということの可能性、すなわち、労働を行う期間に密接に連鎖して、休息をとる
期間が適切かつ科学的に定められる、ということの可能性について。先にも示したように、通常タイプの管理において極めて重要な考えというものは、管理をし
ている誰でも行うことが出来るというよりも、各労働者が自身の職に更に熟練することである。したがって、どのようにしたら仕事が最適に行われるかというこ
との細かな部分は、労働者に委ねられなければならないのである。それならば、人を一人ずつ連れてきて、第三者に構築された科学的原則通りに、継続的かつ習
慣的に働くようになるまで、新しい労働習慣に関して堪能な指導者のもとで訓練するということは、各労働者が自己流の仕事のやり方を最も統制できる古い考え
方に直接的に対抗する。それに加えて、銑鉄処理者に適した人は、愚直すぎて適切に自分自身を訓練できない。このように、通常の管理では、伝統的なやり方を
代替する科学的知識の発達や、労働者の科学的選択、そして科学的原則通りに人を働く気にさせることが、全くもって論外に思われる。これは、新しい管理は責
任の大部分が管理自体にかかるのに対し、古い管理の場合はすべての責任が労働者に所在するという考え方による。
8人中7人の銑鉄処理者は仕事がないから、読者の多
くに大きな同情を呼ぶだろう。しかし職を無くした人は、ベツレヘム製鉄会社によってすぐに他の仕事を与えられるから、そんな同情はまったく不要である。そ
れに、適合しなかった銑鉄処理者の仕事からの解雇は、労働者が適切な訓練の後に恒久的かつ正当に高い賃金を稼ぐことができるような特に適した仕事を見つけ
るまでの第一歩なので、実は彼らにとっては本当の親切だったのだ。
読者は、銑鉄の背景に科学の存在があることに納得し
ているだろうが、未だに労働について科学を介入させることに対して懐疑的な人もいる。この論文の重要なポイントの一つは、そのように懐疑的な読者を、すべ
ての労働者の行為一つ一つは科学に要約される、と確信させることである。この事実を読者に対して完全に納得させるために、単純な例を数多くの事例から選
び、紹介したい。
例えば、掘削作業においては誰もが科学の介在に疑問
を持つだろう。しかし、この論文を読んでいる聡明な人が、掘削作業の科学の源泉を探したならば、15〜20時間もすればこの科学の本質にたどりつくだろう。しかし、伝統的なやり方が未だに支配的であり続けてい
る。筆者は未だかつて科学的なやり方を取り入れたシャベル使いに出会ったことが無い。科学的な方法は、初歩的でなおかつ自明的である。
一流のシャベル使いにとっては、一日で最適のシャベ
ル積載量がある。この積載量はどれくらいだろうか。一流の人が一日に効率良くこなす積載量は5ポン
ド、10ポンド、15ポンド、20、25、30、
もしくは40ポンドか。この疑問には、入念な実験を通じてしか答えられない。最初に二人か三人の一
流のシャベル使いを選び、彼らに正確な仕事をしてもらう為に特別な手当を支払い、それから徐々に積載量を変えて、数週間に渡って実験した。そして実験に手
馴れた人たちによってあらゆる状況を注意深く観察された結果、一流の人にとっての最も効率的な積載量が約21ポ
ンドであることが分かった。例えば、一人は24ポンドや18ポ
ンドの時より、21ポンドの時の方が、一日当たり最大のトン数を得る事ができる。勿論毎回21ポンドを正確に載せることができる人などいないという事は明らかであるが、21ポンドを3、4ポンド上下したところで、平均が21ポンドの時に最
も効率の良い仕事となる。
筆者はこれが掘削作業の技術や科学の全てとは理解し
て欲しくない。他にも多くの要素があり、それが一緒になってこの科学はつくられる。しかし私は、シャベル作業に関する科学的知識の実験が非常に効果的であ
ることを示唆したい。
例えばベツレヘム製鉄会社の仕事では、この実験結果
により、シャベル使いに自前のシャベルを選択させるのではなく、8〜10種類のシャベルを用意する必要ができた。そして、それぞれのシャベルは、扱うそれぞれの物質を平均21ポンド積載できるだけでなく、さらにその他いくつかの用件を満たさなければなれないことがこの仕事を科学
的に分析したことで判明した。広いシャベル置き場が建設され、シャベルだけではなくつるはしやバールなどの精巧に製造され標準化されたその他の工具も収納
されている。これにより、小さめのシャベルは鉱石用に、大きなシャベルは灰用にといったように、それぞれが扱う物質を21ポンド積載でき、それぞれの作業に見合ったシャベルを作業員たちに与えることが可能となった。鉄鉱石は、
この仕事において扱う重い物質のひとつであり、米粒炭はシャベル上で滑りやすくもっとも軽い物質のひとつである。ベツレヘム製鉄会社の伝統的なやり方で
は、シャベル使いは自分のシャベルを所持し仕事に使用しており、鉱石は約30ポンド積載可能で、同
様のシャベルで米粒炭は4ポンドより少ない積載量であることが判明した。この場合、あるケースでは
積載過多が起きてしまい、一日分の仕事を終えることが不可能となった。別のケースではありえない程の積載不足が起こり、あとどれ程で一日の仕事が終るか見
積もることも不可能なほどであった。
簡潔に掘削作業の科学のその他の要素を説明するため
に、適切なシャベルが用意されている場合に、労働者が物質の山にどれだけ早くシャベルを入れ、それを正確に引き出すまでの時間を測る観察が何千回も行われ
た。これらの観察では、最初に山にシャベルを入れるところから、次にその山の端の土の底、木材の底、鉄の底というそれぞれの場合に引き出すまでの時間が計
測された。さらに、シャベルを後ろに振り、設定された水平な距離、高さに積荷を投げた時に要した時間を測るという、同様の時間の正確な測定が行われた。こ
の時間の測定は、様々な距離と高さの組み合わせで行われた。この種の以前のデータが、銑鉄処理者の例で述べられている持久力の法則と一対であることから、
シャベル使い達の監督者は、まず彼らの体力を一番有益に使うために採用された正確な方法を教えることで、完遂すればかならず労働者達が巨額の賞与を得られ
る日々の課業を委託できることは明らかである。
600人あま
りのこの一般階級に属する採掘者や労働者たちが、この時ベツレヘム製鉄会社の作業場にいた。これらの男たちは彼らの仕事によっておよそ縦2マイル横半マイ
ルの広さの作業場に散在していた。彼らを大きなまとまりである持ち場ごとにまとめ、小数の職長の元で管理させていた古い方法の代わりとして、それぞれの労
働者がそれぞれの新しい仕事のために十分な道具ときちんとした指示を与えられ、労働者を自らの仕事に向かわせる細分化システムを確立することが必要だっ
た。各々の労働者は朝仕事に来ると、それぞれの専用の分類棚から番号が記されている2枚の紙きれを取り出す。1枚には彼が道具室から取って来るべき道具
と、どこから仕事を始めるべきかについて、そして2枚目には彼の前日の仕事についての記録;彼がや
り終えた仕事の報告書、前日にいくら彼が稼いだのか、等々が記されている。このような男たちの多くは外国人であり、読み書きが出来なかったが、全員一目で
この報告書の最も重要な部分が分かるようになっていた。なぜなら黄色い紙は、男が前日に課されていた仕事を達成出来なかったことを示していたからであり、
彼に1日1.85ドルの収入分を得られなかったこと、そして有能な男たちのみが、この持ち場にいる
ことを許されることを知らせた。さらに、監督側から、翌日には全額の給料を稼げるようしっかりと働くよう希望が記されていた。よって、男たちは白い紙を受
け取るたびに全てが順調だと分かったし、黄色い紙を受け取るたびに、もっとうまくやらねばならない、さもなければ別の仕事に回されるということを自覚する
ことができた。
このよ
うにして、労働者それぞれを個人として扱うためにはその仕事のこの部門の責任者であった監督と事務員たちのための労働事務所を建てる必要性がでてきた。こ
の事務所では、それぞれの労働者の仕事は事前に計画され、労働者たちは事務員と彼らの目の前にある周到に準備された図や作業所の地図によって、皆あちこち
に移動させられた。電話と配達人制度はこの目的のために設置された。この方法では一方で、あまりに多くの労働者がある現場に存在し、また別の現場では少な
すぎることや、そして、仕事の合間で待機中であることなどで失われた莫大な時間が、完全に取り除かれた。旧体制の下では、労働者は来る日も来る日も比較的
大きな集まりでいたし、各々の職長の下ではその集まりは、この職長の責任である特定の種の仕事が多かろうと少なかろうと、常に同じ規模である傾向があっ
た。というのは、各々の集まりは、どのような専門の仕事が現れようとも、扱えるような大きさでなければならなかったためである。
研究者
が大きな集まりやグループ内の人間でなく、それぞれの労働者を個人として研究し始めるとき、万が一その労働者が課業を失敗するならば、彼に仕事が最善の形
でできる方法を正確に示すため、彼を導き、助け、励ますために、そして同時に、労働者としての彼の将来性を調べるために、有能な教育係が送り込まれなけれ
ばならない。そうすることによって、それぞれの労働者を個々に扱うその計画のもとで容赦なく労働者を解雇することや、失敗をすぐに埋め合わせるために賃金
を引き下げる代わりに、彼は現在の仕事において、自身を熟達させるために要求される時間と助けを与えられるか、また精神的にも身体的にもより適している別
のレベルの仕事に移される。
これら
すべては、管理部門の献身的協力と、伝統的な集団の統率方法よりも周到に準備された複雑な組織やシステムを必要とする。このケースにおける組織は、いくつ
かのグループに分けられる人々によって構成されている。それらのグループとは、前述されているような時間研究を通して労働の科学の発展に従事してきた人
々、自身も専門職でありながら教員として他の工員を労働を通して助け導いてきた人々、適切な道具を供給し、作業に使われるこれらの道具を最善の状態に確保
してきた工員、そして事前に仕事の計画を立て、人員を最小限の時間で配置し、それぞれの収入をきちんと記録してきた事務員たちである。このような組織をみ
た時に自然に思い浮かぶ疑問は、このような組織が、あたまでっかちでないかどうかということである。この問いに対する最も優れた回答は、このような仕組み
の下での三年間の労働の結果示されるであろう。
|
従来のプラン |
新たな業務遂行プラン |
工場で働く労働者の人数 |
400〜600人 |
140人 従来に比べ減少 |
1人が1日当たり課される平均重量 |
16トン |
59トン |
1人が1日当たり得る 平均賃金 |
1.15ド
ル |
1.88ドル |
1トン(=2,240ポ
ンド)を扱う平均コスト |
0.072ドル |
0.033ドル |
また1
トン当たり0.033ドルという低コストの算出において、含められているのは、オフィスや工具室に
おける経費、最高責任者、現場監督者、事務員、時間研究者などのすべての労働者に対する賃金である。
年間で
従来分を上回って、新たなプランにより節減された総額は36,417.69ドルにのぼる。次の6ヵ
月間では、工場における全ての仕事が業務に携わっているときに、その抑えられた金額は1年あたりに換算して、75,000か
ら80,000ドルの間だった。
恐らく
達成した全ての結果の中で最も重要であったのは労働者達自身への影響である。この者達の状態の入念な調査は140人
の労働者の中からたった2人だけが飲酒常習者であるという事実を明らかにした。この事はもちろん彼らの多くがたびたび飲酒していなかったという事を意味す
るわけではない。常習的に飲酒している者は定められたペースについていくのがほとんど不可能であるだろうという事実から事実上全員禁酒していた。ほとんど
の者がではないにしても、多くの者が支出を押さえ、そして彼らの全てが以前よりもより良い暮らしをしていた。これらの労働者達は筆者が今までに見た事の無
いほど優れた組織を構成し、しかも彼らの上に立つ上司達や彼らの教育係達をとても仲のいい親友のように見なしていた。つまり、黒人に対する監督者達のよう
に、普通の給料で彼らを無理により大変な仕事をさせるのではなく、しかしながら彼らが今までに稼いだ事の無い様なより高い給料を稼ぐように、教え、手助け
する友としてである。
誰にも
彼らと雇い主との間に闘争を引き起こす事は絶対に不可能であるだろう。またこの事は管理における二つの主要な対象、つまり“被雇用
者にとっての繁栄は雇い主にとっての繁栄とあいまっている”という
言葉の意味する単純だが効果的な実例を表している。さらにこの事は科学的管理法の4つの基礎的な原理の適用性によって結果がもたらされたということの証明
でもある。
日々の
労働において、労働者に影響を及ぼす誘因の科学的研究価値を示すもう一つの例として、労働者が別々の個人として扱われる代わりに、集団という枠に入れられ
た場合に起こる向上心や自発的貢献の喪失があげられるだろう。綿密な分析によって、個人の向上心が刺激された場合より、労働者が一緒くたに集団という枠に
入れられた時、集団の一人ひとりの効率性がずっと低下するという事実が明らかになった。集団で労働する場合、個人の能率はほとんど必ず持ち場の最低レベル
またはそれ以下まで低下し、つまりは集団になると効率性は引き上げられるのでなく、全面的に引き下げられるということである。このためベツレヘム製鉄会社
においては、職場の総監督の署名の入った特別な許可なしに、4人以上の集団での労働は認められず、また特別許可は最長でも1週間までという一般規定が出された。可能な限り、各々の労働者が個別の課業を持てるよう計らわれた。しか
し、その施設では約5000名が仕事をしていたので、総監督の仕事は多く、特別許可を出す時間はほ
とんど残されていなかった。
集団労
働がこのようにして崩壊した後、慎重な選抜と個人の科学的訓練を通して、著しく優秀な鉱石人夫の集まりが発達した。彼ら一人ひとりは毎日貨車おろし用に別
の車を与えられ、彼らの給料は自身の労働に応じて決まった。もっとも多くの鉱石をおろした者はもっとも高い給料を支払われたので、各々の労働者を他と区別
する重要性を証明するまれな機会が訪れた。この鉱石の多くはスペリオル湖地域から来たもので、同じ鉱石は全く似た車でピッツバーグとベツレヘムに運ばれ
た。ピッツバーグでは鉱石人夫が不足していたが、ベツレヘムでは優秀な労働者が増加していると伝えられていたので、あるピッツバーグの製鉄会社はベツレヘ
ムの人間を雇うために代理人を送った。ピッツバーグの労働者たちは貨車おろしに1トンあたりに4.9セ
ントの賃金を要求したのに対し、同じ鉱石を同じシャベルで、同じ貨車から降ろす作業をベツレヘムの労働者は1トンあたり3.2セントで行った。この状況を熟慮した結果、ベツレヘムの採掘貨車の貨車おろしに3.2セント以上を払うことは賢明でないと判断した。なぜなら、このままいくと一日一人当たり1.85ドル余りも稼ぐことになり、この価格はベツレヘムでの基準賃金よりも60%多くなってしまうからだ。
長期に
わたる実験と詳細な検証により以下の事実が導き出された。労働者にとって正確に計測された分量の仕事(彼
らの担当の大部分を占める)が与えられ、大仕事の報酬として通常よりも60%増程度の賃金が支払われる場合、彼らはこの増加分の賃金をより倹約するだけでなく、より良く暮らし、貯
蓄をしたり、分別を持ったり、仕事をよりきちんと行うなど、あらゆる面でよい労働者になるのだ。けれども一方で、60%
よりもはるかに多くの増給をすると、労働者の多くが不規則に働き、多かれ少なかれ役に立たなくなり、金遣いが荒くなり、浪費をする傾向にあった。我々の実
験はすなわち、急に富を得るということは、多くの人間にとって好ましくないということを示した。
以上の
理由により、鉱石人夫の賃金を上げないことを決定した後、彼らは一人ずつオフィスに連れて来られ、次のように話しかけられたのである。
「さ
て、パトリックさん、君は自分が有能である人間だということを私達に証明したね。君の日給は1.85ド
ル余りで、我々の下で鉱石人夫として働いてもらいたい理想の人間なんだ。ところで、ピッツバーグ出身の男は鉱石1トン当たり4.9セント支払えるが、我々は3.9セントまでしか
支払えない。だから、君はこの男性に仕事を申し込むべきだ。もちろん、君が我々の元を離れてしまうのはとても残念だ。だが君が自分は有能な人間だという事
を示して、お金を稼ぐチャンスを手に入れたのは、我々にとっても嬉しいことだ。でも、もしその仕事を失った時は、いつでも我々の元へ戻ってきても良い事を
覚えていてほしい。君のように仕事ができる人間は、いつでもここでの仕事が用意されているからな。」
鉱石人
夫のほとんどは、このアドバイスを受け、ピッツバーグに向かった。しかし、およそ六週間後、彼らの多くはベツレヘムに戻っており、かつての賃金である1ト
ン当たり3.2セントで、鉱石の貨車おろしをしていた。著者はその中の一人と次のように話したので
ある。
「パト
リックさん、ここで何をやっているんだい?君を解雇したと思ったのだが。」
「では、あなたにどのようだったかお話しましょう。
私たちがそこに出ると、私とジミーは8人の他の男と共に車両に乗せられた。私たちはちょうどここでやっているのと同じようにショベルで鉱石を掘り出し始め
た。約30分後、私は小さな怠け者が私の側でほとんど何もせずにいるのを見たので、私は彼に言っ
た。『何でお前は仕事をやらないのか。私たちが鉱石をこの車両から出さないと給料日にお金を全くもらえないぞ。』彼は私の方に振り返って、『あなたは一
体・・誰ですか。』と言った。」
「私は言った。『それは、君には関係のないこと
だ。』 するとその小さな怠け者は、私の前に立ちあがって言った。『あんたは自分のことだけ気にしていろ、さもないとこの車両から放り出すぞ。』 まぁ、
私は彼に唾を吐きかけて溺れさせることもできたが、他の男たちがショベルを置いて彼に味方をするように見えたので、私はジミーの元に行って(他の男たちみ
んなが聞こえるように)『ジミー、君と私は今からは小さな怠け者がショベル一杯分放った時に一杯分放ることにしよう。それ以上はしない。』 なので、私た
ちは彼を観察し、彼がショベルを使った時にしか使わなかった。」
「しかし給料日が訪れた時、私たちはここベツレヘム
で得たお金よりも少ないお金しか持っていなかった。その後ジミーと私はボスの元へ行き、ベツレヘムで得たのと同じように私たちのための車両をお願いした。
しかし彼は、私たちに自分のことに集中するようにと言った。そしてまた次の給料日が来た時、私たちはここベツレヘムで得たよりも少ない金しか得られなかっ
たので、ジミーと私は男たちをみんなまた呼び集めて、ここで働くために戻ってきたのです。」
彼らは一団の仕事で1トンあたり4.9セントの給料で働いていた時よりも、1トンあたり3.2セントで、各個人が自分達のために働いている時のほ
うが、高い給料を稼ぐことができた。そしてこれはまた、一番基礎的な科学的原理に従って働くことでさえ得ることができた、多大なる利益を示している。しか
しこれは、一番基礎的な原理の適用にあたって、管理者の仕事の役割として労働者と協力し合うことが必要であるということも示している。ピッツバーグの経営
者らは、ベツレヘムでの結果がどのようにして達成されたのかはまさしく
知っていたが、彼らは先のことを計画し、各採掘者に別々の車両を割り当て、一人一人の採掘者の仕事を個々の記録に残し、働いて得た分だけ彼に支払うために
必要な、些細な問題や費用を被ることを好まなかったのである。
レンガ積みは我々の職の中でも、一番古い職の一つで
ある。
この数百年の間に、この仕事で使われている道具や材
料に対しての改善がほとんどなされてこなかった。また、レンガを積む方法に関しても、なんの改善もなされていない。何百万もの人々がこの職に従事したにも
関わらず、大きな進歩はいくつもの世代にわたっても発展してこなかった。そういうわけでここで人は少なくとも、科学的分析と研究による何らかの増進を期待
してはいるだろうが、ほとんど何も得てはいないであろう。我々の組織のメンバーであり、レンガ積みを彼自身が青年期に覚えた、Frank
B.
Gilbreth氏は、科学的管理の原理に興味をもち、それらをレンガ積みの技術に適用することを決心した。彼はレンガ職人の一つ一つの動作に関して大変
に興味深い分析と研究を行い、次々と不要な動作をすべて取り除き、遅い動作を敏速な動作に置き換えたのである。彼は、レンガ職人の仕事の早さと疲労の具合
にどのように影響を与えるのか、分単位の要素を用いて実験した。
彼は壁とモルタル箱とレンガの山の位置関係から、
一人のレンガ職人が占めるべき正確な位置を開発した。そしてそのおかげで、一つレンガを置くごとに一、二歩レンガの山に向かって歩みそしてまた戻るという
過程は、レンガ職人に不要になった。
レンガ、モルタル、人間と壁をその最も適した関連箇
所におくために、彼はモルタル箱とレンガの山の最善の高さを研究し、そしてそれからその上にすべての素材が配置されるテーブルが置かれる足場をデザインし
た。壁が高くなるたびにこれらの足場は、その調節のために特別に任命された労働者によって調節される。そしてこの方法によって、レンガ一つごとに足元に屈
み、こてをモルタルでいっぱいにしてからまた背筋を伸ばすという労力をレンガ職人は省けるようになった。レンガ(そ
の重さおよそ5ポンド)ごとに、体重150ポ
ンド程度の各レンガ職人は体を屈めて、2フィート下がってまた体を上げる。この作業が行われていたすべての年月の労力の浪費を考えるべきである。そして、
レンガ職人に一人につき一日に一千回ほどこの作業は行われていた。
更なる研究の結果、レンガが車から下ろされ、レンガ
職人に持ってこられる前に、レンガは労働者により注意深く整理され、簡易な木製の枠上に最高の角で置かれるということがわかった。これは労働者が、必要な
レンガを最速で取れる最適な配置になるように考えられている。これをすることにより、作業中レンガをひっくり返したり、どの角を壁の外側に配置するかで悩
む時間が削減されるのである。また多くの場合、レンガが雑多に置かれている足場から、レンガを探す時間も削減されるのだ。レンガの容器(ギルブレス氏が、
積まれた木製の枠と呼んでいるもの)は助手によって、モルタル箱の近くの調整可能な足場に、正しく設置される。
私たちは皆、レンガ職人が、積んだレンガの固定度を
確認するためにそれぞれのレンガを軽く叩く光景を見るのに慣れている。ギルブレス氏は、モルタルを手で上手く調整することにより、下方にかかる圧力が発生
し、自動的に最適な深さになることを発見した。彼はレンガを軽く叩くその時間を削減するために、この、モルタルを手で上手く調整する作業を重用視するべき
だと主張した。
標準状態下でレンガを積む時にレンガ職人が行う動き
のこの詳細な研究全てを通して、ギルブレス氏は1つのレンガにつき18の動作から5つへ、ある事例
にいたっては2つの動作まで少なく動作を減らした。彼はこの職業に対する分析の詳細全てを、Myron C,
Clerk出版会社(New York and Chicago), E.F.N. Spon(London)から出版されている『レンガ積みの体系的方法』(Bricklaying
System)と題した彼の本の、『動作研究』(Motion Study)という
見出しの章の中で記した。
ギルブレス氏によって用いられた手段の分析は、レン
ガ職人の動作を18から5に減らす中で、3つの異なった方法によりこの改善が作られたことを示す。
一 昔のレンガ職人が必要であると信じていたが、彼
の分野の注意深い研究や試行の結果無用であることを証明した、特定の動作を彼は完全に省いている。
二 彼は調整可能な足場や、レンガをまとめるための
容器といった簡単な器具を紹介することによって、とても少量の安い労働者からの協力で、足場や包みを使用しないレンガ職人に必要な、厄介で時間を浪費する
多くの動作を全て排除している。
三 彼は彼のレンガ職人に、以前は彼らが右手を使っ
た動作を終えた後に左手を使って動作を続けていたが、今では簡単な動作を同時に両手で行うことを教えている。
たとえば、ギルブレス氏は彼のレンガ積み職人に対し
て、左手でレンガを持ち上げると同時に、右手でこていっぱいのモルタルを取るよう教える。この二つの手で同時に行われる仕事は、もちろん、深いモルタル箱
が古いモルタル板に代用されて可能になったことであり(モルタルがとても薄く広がっているのでそれを取るのに少々手間がかかっていた)、その後にモルタル
箱と積み重ねられているレンガをともに近づけ、そして彼の新しい足場の適切な高さに置かれる。
ギルブレス氏が自らの分析を科学的動作研究と呼
び、また筆者が時間研究と呼んでいたものがすべての職にも適用されるときに、これら三つの種類の改善点は、必要のない動作が完全に削減され、より速い型の
行動は遅い動きに取って代わる典型例となるのである。
しかしほとんどの実務家は(熟練工員の方法や習性
に対してどのような変化を与えようとも、ほとんど全員に反対されることを知っているので)、このような種類の研究から実際に達成された大きな成果の可能性
について懐疑的だろう。数ヶ月前にギルブレス氏は、彼が組み立てた大きなレンガの建物の中で、彼の科学的研究を実際に適用することで可能となった大きな成
果を商業ベースで実演した。
レンガ職人組合におい
て、厚さ12インチの工場の壁をその両端の接合箇所を配置し仕上げを施しながら2種類のレンガを使って作る時、彼の方法の下で熟練した彼の寄り抜きの職人
たちが、1時間に積み上げられるレンガの数は350個である、と彼は平均した。一方で古いやり方を
用いると、その地域おいて同じ作業が行われる平均的なスピードは、職人1人につき1時間で120個
程度であった。
彼の新しい方法は、親
方によってレンガ職人たちに伝えられた。その教えの恩恵を受けなかった者たちは解雇されてしまったが、新しい方法の下で熟達した職人たちは、相当な(決し
て微々たるものではない)昇給を受けた。さらにギルブレス氏は、職人たちの個性を発揮させ、仕事に対して全力で取り組ませるために、各レンガ職人たちに
よって積み上げられたレンガの数の計算・記録したり、どれくらいのレンガを積み上げることに成功したか職人たちに頻繁に知らせたりする上での手助けとな
る、独創性に溢れた方法も発達させた。
この方法が、レンガ職
人組合の誤った管理下の状態と比較された時初めて、多大な労力が無駄に消費されている事実を認識することができる。ある都市のレンガ職人組合は、職人が一
日に積み上げるレンガの数を、市に従事する場合には275個、私的所有者に従事する場合は375個と定めている。おそらく彼らの中には、仕事量に制限を課すことが持ち場の利益になるという断固とした
確信があるのだろう。しかし全ての人々にはっきりしたいのは、このような計画性を伴う怠業は許しがたいことであり、それは当然あらゆる労働者家族に対しよ
り高い家賃を強制させ、結果的に職や仕事を増やすどころか、彼らの町から追い払ってしまうのである。
紀元前から途絶えることなく続けられてきた職におい
て、さらに現在とほとんど同じ道具が用いられながら、なぜこのようなレンガ職人の行動、このような莫大な利益は、今まで作られることがなかったのであろう
か。
これらの年月の間何回も、レンガ職人個人がこれらの
不必要な動作を排除できるということを認識していたことは、大いに考えられる。しかし、もし仮に、過去において、あるレンガ職人がギルブレス氏の改善の各
動作を編み出したとしても、それらを採用したところで、一人では作業速度を上げることはできなかったであろう。なぜなら全ての場合において、レンガ職人は
数人が一列に並んで共に仕事をし、そして建物全ての外壁は同じ速度で作られるべきだということを頭に入れておかなければならないからである。そうすると、
レンガ職人は誰一人として自分の隣で仕事をしているレンガ職人よりももっと速く仕事を進めることはできないのである。また誰一人として、他のレンガ職人に
もっと速く仕事をさせて自分に協力させる権限を持っていないのである。このようなより敏速な仕事は、強制的な方法の標準化、最適な道具と最善の労働条件の
強制的な採用、そして強制的な協力によってのみ達成されるのである。また、標準化の採用やこのような協力を強要する職責は管理者側のみに依るのである。管
理者は、各新労働者に新しくより単純な動作を教えるために一人ないしもっと多くの教育者を絶えず供給しなければならないし、比較的仕事の遅い労働者は、彼
らが適切な速度で仕事ができるようになるまで、絶えず監視され援助を受けなければならないのである。しかるべき教育の後に、新しい方法やより早い仕事の速
さに将来ついていけないであろう、また現在ついていけない労働者は皆、管理者によって解雇されなければならないのである。また、見返りとなるさらなる賃金
が提供されない限り、労働者はこのような融通の利かない標準化や、必要以上の労働を強いられることを甘んじて受け入れはしないことを、管理者側は明白な事
実として認識しなければならない。
これらのすべては、人々を大きな集団とみなして集団
の中で扱うのではなく、個別の対処と対応とが必要なのである。
管理者側はまた、たとえばレンガを用意する人、モル
タルを準備する人、足場を組む人など、レンガ職人たちそれぞれの仕事に対し、正確な内容で時間通りに仕事をさせ、協力できるように注意する必要がある。そ
して、彼らが自分だけのペースで仕事を進めないよう、頻繁にお互いの仕事の進捗状況を確認させなければならない。このように、過去の雇用者たちが取り組ん
だことのない新しいタイプの任務や、仕事に対する管理方法から導かれる前提こそが、この飛躍的な進歩を可能にしたのである。そしてこのような管理者側の支
援なしには、いくらやる気に溢れ、また先進的な技術に対する知識の豊富な労働者も、これらの十分な称賛に値する結果を残すことはできないであろう。
ギルブレス氏による「レンガ積みの方法論」はごくご
く単純な、しかしまさに効率的な協同に対する例証がなされている。それは、労働者側のみが管理者側に呼応し、ただ大きな一団となって働くような協力ではな
い。そうではなく、管理者側の数人の(それぞれ異なった種類の仕事を受け持つ)人間が、片や従業員の要望や短所を個別に汲み取りながら、より早く仕事をこ
なす方法を指導し、一方では、その未熟な従業員が頼りにしている別の従業員たちに、自分の持ち場の仕事を正確に早く進めることで、その従業員を支援し協力
するよう監督するのである。
著者は、このアウト
プットの増加と調和が、もはや過去の一般原則である「自発的貢献とインセンティブ」(すなわち問題を工員に押し付け、彼らに単独で解決させる方法)という
管理方法では達成し得なかったであろう、ということを完璧に明らかにするために、ギルブレス氏の方法について詳しく述べてきた。そして彼の成功が、科学的
管理法の本質を構成する4つの要素を用いたことに起因するものである、としてきたのである。
一 労働者の個々の作業に対する細かなルールを設定
し、実行方法や労働環境を完備、標準化させたことによるレンガ積みの科学の開発(これは管理者によるものであって、労働者によるものではない)。
二 レンガ職人を第一級の人間にするための慎重な選
択と、その後のトレーニング。そして最善の方法の採用を拒む、または適応できない人物の排除。
三 管理者の継続的な補助と注意深い観察、迅速かつ
指示通りに仕事を行う労働者に対して1日単位での多額の賞与を支給することによる、一流のレンガ職人とレンガ積み科学の融合。
四 労働者と管理者にほぼ公平に分けられた仕事と責
任。管理者は一日中労働者のそばで、力添えし、奨励し、彼らの作業の円滑化を図るために働く。一方で過去において管理者はただ隣に立ち、微々たる補助しか
せず、方法、実行方法、速さ、調和のとれた協力といったほぼ全ての責任を労働者に転嫁していた。
それらの四つの要素の
中で、第一の要素(レンガ積みの科学を開発すること)は最も興味深くて壮大だ。しかしながら、他の三つも各々が、成功には全く同じくらい必要である。
そのすべての裏には、そしてそこに向かうには、楽観
的で、決然としていて、勤勉であり、働きながら根気良く待つことができるリーダーがいなければならないことを忘れてはいけない。
多くの場合(特にやる
べき仕事が自然で複雑であるとき)、「科学の開発」は新しい管理の四つの素晴らしい要素の中で、
もっとも重要である。しかし、「労働者の科学的選択」がほかの何よりも価値があるとされる場合もある。
このタイプに関する
ケースは、球状の自転車部品を点検するといった非常に簡単な、しかし珍しい仕事でよく例証される。
数年前に自転車の大流
行が最高潮にあった時、何百万ものその小さな部品が毎年自転車用のボールベアリングに使われた。そして、その鋼の部品を製造する際に行われる20以上の工程の中でおそらく一番大事だと思われたのが、最後の研磨の後、箱詰めの前に行われる、熱によってひび割れているかそうでなくとも欠陥のある全てのその部品を取り除くための検査で
ある。
著者は、この国で最も大きな自転車部品工場を体系化
する仕事を与えられた。この会社は著者が再編成を引き受けるまでに、ありふれた一日の仕事というやり方で8〜10年間操業していて、そのため120人以上のボール
を検査していた若い女性は「ベテラン」で、仕事に熟練していた。
最も初歩的な仕事でも、昔の独立した個々の仕事から
科学に基づいた協力へ急激に変化を遂げることは不可能である。
しかしほとんどの場合に労働状況に特定の不完全性が
存在し、これは全体の利益を考えた上で改善することができる。
この場合では、土曜日は半日休暇で、女性の検査官は
一日十時間半働いていることがわかった。
彼女たちの仕事は、単純に左手の掌で二本の指をくっ
つけてできる指と指との間の溝に、磨かれた小さな鉄の球状の部品を一列に乗せて、何度も転がしながら強い光で細かく検査し、右手で持った磁石で欠陥品を持
ち上げて専用の箱に入れる。へこんでいるもの、柔らかいもの、傷がついているもの、そして熱によりヒビが入ってしまったものの四つの欠陥が検査され、これ
らの欠陥は非常に微細でこの検査のために訓練された人でなければ目視できないほどである。繊細な注意力と集中力が要求されるため、検査官たちは楽に座って
いて身体的には疲れないにも関わらず、神経的な緊張は重大なものであった。
簡単な研究によって、彼女らが働くはずの十時間半の
うちの大きな割合が、長すぎる労働時間のために、実は無為なまま過ごされていることが明らかとなった。常識的に考えて、『仕事をする時は仕事をする』、
『遊ぶときは遊ぶ』というように、両者を混同しないで労働時間を計画することが普通である。
全工程の科学的研究に着手したサンフォード・E・トンプソン氏が来る以前に、私たちはしたがって労働時間を短縮することに決めたのである。
何年もの間検査室を監督してきた前の職長は、優れた
検査官とたいへん影響力のある検査官と次々と面会し、彼らが1日10時間半要していた仕事を10時間でできるよう説得するように命じられた。検査官はそれぞれ、その提案とは日勤を10時間に短縮し彼女たちに10時間半で受け取ってい
たのと同じ日当を支払うものであると告げられた。
約2週間のうちに、前の職長は自分が話した彼女たち
の全員が、10時間半かかる現在の仕事を10時
間でできることと、その変更を承認することに同意したと報告してきたのである。
著者は、特に彼のかけひきの才というものを気も止め
ていなかったので、彼に彼女たちに新しい提案に投票させることによって、その資質の片鱗を示させることは賢明であると考えた。残念ながら、この決定はまっ
たくうまくいかなかった。というのも、この投票に際して、彼女たちは10時間半が十分であること
と、いかなる種類の変革も望まないということで一致していたからである。
このことは一時的に、問題にふたをした。数ヶ月後に
このような駆け引きは排され、労働時間を恣意的に10時間、9時
間30分、9時間、8時間半と段階を踏んで
短縮することができた(一日の給料は同じままで)。そしてどの労働時間の短縮段階においても出来高は減少せずに増えたのである。
この分野の伝統的方法から科学的方法への変化は、動
作時間研究にこの国において最も精通している研究者であろうサンフォード・E・トンプソン氏と総監督のH・L・ガント氏によってなされたものである。
我々の大学の生理学分野の研究は通常、被験者の「個
人係数」といわれるものを測定することである。個人係数の実験とは、たとえばある者がAとBという文字がかかれた物体を持ってこられた瞬間に彼はその文字
が何かを意味するのだと認知し、ある特定の電気のボタンを押そうとする。文字が視界に入った瞬間からボタンを押すまでの時間の経過は、正確に精巧な科学機
器を使って計測される。
この実験によって、「個人係数」には被験者によって
大きな個人差があることが示された。ある人間は、著しく機敏な知覚能力と素早い反応動作を生得的に持ち合わせている。見たものは瞬時に目から脳へと伝送さ
れ、そして脳はそれと同じくらいの速さで反応し、手へと動作の信号を送るのである。
この種類の人々は、ゆっくりとした近くとゆっくりと
した動作をする低い「個人係数」の中で、素早い知覚と機敏な動作という資質、すなわち低い「個人係数」を持っているといわれている。
トンプソン氏がすぐに気づいたのは、自転車の部品の
検査官に必要な資質は低い個人係数であることであった。言うまでもなく、彼らには一般的な忍耐力と勤労も要求されている。
最終的に優秀な会社だけでなく優秀な女子工員たちの
ためには、しかしながら、低い個人係数を持ち合わせていないすべての女性たちを排除する必要があった。そして、不幸にもこれは最もかしこく、よく働き、そ
して最も頼れる多くの女性たちを、単に機敏な活動が伴った素早い知覚という資質を持っていなかったというだけでクビにする、ということを含んでいた。
女子工員たちの選別が徐々に進む間、他の変化もまた
作られていた。男女工員の給料が、どのような形であれ出来高に由来するとき、抑えるべき危険とは、彼らの生産量を増やそうと努力して、生産物の質が悪化し
がちになることである。
そこで、確実に歩を進めるために、増産に動く前に質
を落とさないような保険をかけることは、ほとんどの場合において必要なことである。
女子工員たちの仕事においては、検査精度の高さが重
要となる。彼女たちは欠陥を有する全てのボールを取り除く作業に従事した。
それゆえ第一に、彼女たちに悟られることなく彼女た
ちが仕事を疎かにすることができないようにした。これはいわゆる上位検査という特殊な監査方法によって実現される。4人の最も信頼できる監査官は、それぞ
れ一般の検査官らによって前日に検査され終えたボール群のうち1人分をわたされ、監査を行う。ただし、どの検査官によって検査されたボール群であるかを4
人の監査官たちが識別できないよう、職長によってボール群についた番号は変えられる。さらに翌日には、4人の監査官たちに監査されたボール群のうちの一つ
が監査主任によって監査される。監査主任は検査の正確性と報告の真実性において特に優れた検査官である。更に、この上位検査の真実性および正確性を確かめ
るための効果的な手段が用いられる。2,3日に一度、職長は欠陥のないボールの数を正確に数え、更に数種類かの欠陥のあるボールをそこに加えたボール群を
特別に用意する。一般の検査官らと4人の検査官たちはこの特別なボール群をその他一般のボール群と見分けるいかなる術ももたない。このようにして、仕事を
疎かにし、虚偽の報告をしようという全ての誘惑が取り除かれる。
品質の悪化に対してこのように保証した後、生産物を
増加させるための効果的な措置が早速講じられた。旧来のずさんなやり方が、一日単位の優れた働き方にとって替わられたのである。つまり仕事の量・品質、両
方に関しての正確な日単位の記録を保持することで、親方の判断による個人的な偏見を防ぐと同時に、各検査工に対する完全な公平性、そして正義を保証しよう
としたのである。この記録に基づき、大量・高品質な生産物を出したものには賃上げを提供すると同時に、救い難いあるいは軽率だと認識されたものに対して、
そして苦言を述べながら劣った仕事をしている者に対しては低賃金を提供することで、親方は検査工のやる気を奮い立たせることが比較的短期間で出来た。そし
て次に、各女子工員がどのように時間を過ごしていたかについて緻密な検査が実施された。作業の正確な時間を割り出すために、この検査においてはストップ
ウォッチや記入表を利用した。この実験を通して、それぞれの検閲がどのくらいの速度で行うのが適切かを定め、各女子工員を極度の疲労を感じる厳しい仕事か
ら守りつつ、最も素早く・素晴らしい仕事を実現するために必要な厳格な条件を設けた。この調査によって、彼女たちが多くの時間を部分的に怠情な状態で過ご
し、お喋りをしながら片手間に働いたり、もしくは全く何もしていないということが映し出された。
そして労働時間を十時間半から八時間半に削減したと
きでさえ、注意深い観察の結果からは、女子工員達が約一時間半継続的に働いたあたりから過労状態になり始めていることがわかった。明らかに彼女達は休憩が
必要だったのだ。過労になり始めるところで仕事をやめさせるのが賢明であるから、私たちは75分ご
とに10分間の休憩を設けた。この休憩時間の間(午前中に10分
の休憩を二回、午後にも二回)、彼女らは仕事を止め、席を離れ、歩き回ることや、話しをするなどして、まったく違った環境に入るように促された。
当然、見方によっては、彼女達が容赦なく扱われてい
ると言われるだろう。なぜなら離れた間隔で座らされ、仕事中に都合よく話すこともできないからだ。
しかしながら労働時間を短縮し、上述したような好ま
しい労働環境を与えることで、表面的ではなく実際に彼女達が安定して仕事をできるようになるのである。
このように女子工員が適切に選ばれ、一方では、彼女
たちを酷使しすぎないように予防策がとられ、他方では、仕事を軽視する気にさせるものを取り除き、かつ最も好適な労働状況を構築していった。この段階まで
再組織が達せられたときに、初めて最後の一歩を進め、労働者にはその最も欲するもの―高賃金―を確保し、雇用主にはその最も欲するもの―最大の生産高と最
高の仕事の質―すなわち低い労働費を確保できるのである。
この最後の一歩とは、有能な工員に一日分の仕事を
要求するといった、綿密に計算された毎日の課業を各女子工員に与え、そしてこの課業を達成するたびに報奨金やボーナスを十分に与えることである。
この場合、上記のことはいわゆる差別出来高賃金制
によって達せられる(注. アメリカ機械工業学会の際に発表した拙著「出来高賃金制」16巻856ページを参照)。この制度の下では、各女
子工員の賃金は生産高に比例して増加し、また仕事の正確さに比例してより一層の増加をするのである。後で示されるように、差別出来高賃金制(その個数は、
差別出来高の基準をつくる検査官によって検査される)は成される仕事の数量において大きな増加をもたらすと同時に、品質においても著しい向上をもたらし
た。
彼女たちが最終的に最も良く働くようになるまでに
は、毎時間ごとにそれぞれの女子工員の生産高をはかり、遅れをとっている個々人のもとには、何が間違っているかを見つけ、彼女を正し、励まし追いつくよう
に援助するため指導員を派遣することが必要であるとわかった。
この背後には、特に人の管理に興味を持つすべての
人々に理解されるべき一般原理がある。
もし彼女たちに最良な仕事をさせるため効果的にし
たいのなら、報酬は仕事が終わった後に、すぐ出されなければならない。ごく一握りの人々しか、一週間以上あるいは長ければ一ヶ月先まで待つことができ、そ
の期間の最後に受け取る報酬のために一生懸命働くことなどできないものなのだ。
平均的な工員は能力を発揮するには、一日の終わりに
達成したものをはっきりと見てとれなければならない。そして例えば、少女たちが自転車のベルを点検したり、子供たちが労働をしたりするというようなさらに
初等の身分でも、上司が個人的に親しく話しかけたり、なんらかの目に見える報酬を一時間に一回与えるというような適切な励ましが必要だ。
これは、協同制度もしくは利益配分制度によって、職
員に株を売却したり一年の終わりにボーナスを出したりしても、人が一生懸命働かせるのに少しの効果しかない主な理由のひとつである。彼らが気楽にのんびり
と事を構えれば、今日確実に得ることのできる素晴らしい時間は、半年間もの変化のない重労働の結果得られるであろう、他の人々と分かち合う報酬よりも魅力
的に感じられることを示しているのだ。利益配分という考え方が非効率であるもうひとつの理由は、個人の野心を十分に叶えるような協同の方法が未だかつて考
案されていないことである。個人の野心というのは、これまでもそしてこれからも、ありふれた福祉を望むということよりも、努力を引き出すためのより強力な
インセンティブであり続けるであろう。誤って配置され手抜き仕事をしているのにもかかわらず他の者と同等の報酬を受ける工員は、協調のもとでは有能な人間
を彼らのレベルにまで引きずり落としてしまうのである。
協同制度のもうひとつの恐ろしい困難は、公平に利益
を分配するということであって、その間労働者たちは利益を分配する気はあるが、損失を互いに受け持つ気も受け持つこともできない。さらに多くの場合、完全
に彼らが影響しえる範囲外のところに原因が大きく由来しているため、利益も損失も分配するのは正当でも公平でもないからだ。
自転車用のボールベアリングの検査を行っていた女子
工員の例を取り上げた時、結果として以前120人の人材が必要だった作業が35人で行う事が可能になった。又、新しい方法はより速く、正確さが2/3の
率で増加した。
作業に加わった女性に対しては、複数の待遇が与えら
れた。第一に賃金が80〜100%増加し
た。
第二に、彼女たちの労働時間が、10.5時間から8.5時間へ短縮され、土曜日は半日
の作業日となった。また一日に4回の休み時間が設けられ、健康な女子工員が過労に陥ることなど不可能になった。
第三に、各自が大きな仕事を任せられ、万が一仕事が
困難に陥った場合、補助を施す人材も確保された。
第四に、各自毎月個人の希望で二日連続の有給休暇を
与えるべきである。あまりこの点に自信はないが、彼女たちはこの特権を与えられている、というのが私の印象である。
以上の変化が会社にもたらした利点は複数ある。
第一に、商品の質の向上である。
第二に、検査段階での新たなコストは生じたものの、
全体的にみるとコストは削減されている。
第三に、管理者と工員の間におけるもっとも友好的な
関係が、あらゆる種の労働問題やストライキを起こりえなくした。
これらのよい結果は、好ましくない労働条件を好まし
いものに置き換えるあらゆる変更によってもたらされた。しかしながら, ほかの全ての要素よりも
効果をもたらしたのは、知覚が遅い女工と置き換えた--(すなわち個人係数が低い女工を個人係数が
高い女工に置き換えること)--ために、迅速な知覚をもつ女工を注意して選択したことであり、つま
り労働者の科学的選択であった、ということは正しく理解されるべきである。
これまでのところ例証は、意図的により単純なタイプ
の仕事に限定されていた。そのためもっと知能の高い工員たちの場合、つまりより一般化に適する能力をもち、そのため自らの意志でより科学的で好ましい方法
をすすんで選ぼうとする人たちの場合に、この種の協調が望ましいものなのかどうか、ということに関してかなり強い疑念がまだ残っているにちがいない。次の
例証は、高いレベルの仕事において開発した科学的法則はとても複雑であるため、高収入の機械工員が(安い工員よりもいっそう)その法則をみつけ、そして選
別し、発達させ、これらの法則にしたがって働くように彼を訓練する際には、彼自身よりも教育を受けている人との共同が必要となる、ということを示すために
なされる。これらの例証は、ほとんどすべての機械工作技術において、各工員の行動の背後にある科学がとても大きく、かなりの量になるので、実際にその仕事
をするのに最も適している工員でも、教育の欠如または精神能力の不十分さによってこの科学を理解することができない、という我々のそもそもの主張を完全に
明確なものとするだろう。
それぞれの労働者の熟練に加え、ことあるごとに職長
から助言してもらえば、それぞれの優秀な方法も個人の器用さも向上するわけだから、たとえ科学的研究をやっても、効率的に物理的な著しい増加は望めないだ
ろう。ほとんどの読者は、こういった疑問を心中で思ったことだろう。(年中同じ機械を生産する場合に、すなわち工場でそれぞれ機械工が何個も繰り返し限ら
れた操作を繰り返さなければならない場合は、特にそうだろう。)
何年か前、同じ機械を10年から15年生産し続けている300人を雇用している会社が、科学的管理を通じていくらかの利益が得られるかどうか私たちに調査を依頼して
きた。彼らの工場は、一つの仕事を優秀な職長と労働者と長年よい監督の下、管理してきた。彼らの工場、全体の体制は間違いなく、この国の平均的な機械工場
より構造的によかった。同じ数の人と機械で課題、管理、調整すれば、生産高は倍増すると著者が言うと工場長は明らかに不満そうだった。彼はどんな報告書も
自慢めいたものにすぎないし、でたらめだ、と言う。自信を持って我々の方法を行ってくれるどころか、厚かましい意見を言う者だと彼は著者に腹をたててし
まった。しかし数ある機械の中から中程度の生産高の機械を一つ選んでくれれば、この機械において科学的方法を通じて生産高が倍増してみせるという著者の提
案には、彼は快く同意してくれた。
彼が選んだ機械は、実際にその工場の仕事ぶりを表し
ていた。その機械はもう10年から12年
間、その事業所内の他の平均的な職人よりも技術面においてずっと勝る一級の機械工によって運転されていた。同類の機械が何度も繰り返し製造されるこのよう
な工場では、作業は必然的に非常に細分化されるので、年間を通して、全員が比較的少数の箇所について働くことになる。そこで実際に一級の機械工が個々の箇
所を終了するまでにかかった時間の詳細な記録が、両者の立ち会いの上でとられた。彼が各部品を製造し終えるのにかかった総時間、部品を送る正確なスピード
とその間隔が測られ、彼がその作業を機械にセッティングし、また外すのにかかった時間も記録された。この様にして、その工場内の公正な平均的作業を表す報
告書が得られた後、われわれはこの特定の機械に科学的管理の原理を応用した。
鋼鉄切断機械の包括的な生産能力を計る目的で特別に
作られた、4つの非常に精密な計算尺を使用して、その機械の作業に関係する全ての要素が念入りに分析された。様々なスピードにおいての牽引力、供給容量、
そして正しいスピードが計算尺によって判断され、適切なスピードで動作するよう反転軸や主動滑車に変更がなされた。
高速度鋼を原料とし適切な形状を伴った機械は適切に
装着され、取り扱われ、そして据え付けられていた。(この事例では、これまで工場内で用いられてきた高速度鋼製の汎用機械もまた、デモンストレーションの
実演に用いられていたことは理解しておくべきである。)そして、この特別な旋盤上で考え得るもっとも短い時間で様々な作業が行えるように正確な速度と繰出
量を示すために手段として、大型の特製計算尺が作られたのである。このように、作業員がこの新しい方法に沿って次々に作業をこなせるように準備をしたの
ち、我々の先行実験の中で行われた作業に対応する形で、旋盤上の種々の作業が行われた。科学的管理法の原理に基づく機械の使用を通じて得られた時間的な効
率性の向上は、機械のスピードがもっとも遅い場合では2.5倍、最も早いものでは9倍であった。
一方でおおざっぱなやり方による管理から科学的管理
法への転換は、作業をこなす上で適正なスピードとは何か、工具の再設計とは何か、そして工場内での種々の実践とは何かといったことについての研究だけでは
なく、工場にいるすべての作業員の、彼らの取り組む作業と彼らの雇い主に対する心的態度の完全な転換をも必要としている。
大きな利益を保証するために必要な機械に対する物理
的な改善と、ストップウォッチを使用した各々の工員自身の果たすべき仕事の時間に関する詳細な調査に続く動作研究は、ごく短期間で達成することが可能であ
る。しかし最終的には、各人にその管理下での人々との日々の仕事における誠意のある協調により得るであろう、すばらしいメリットを明らかにすることになる
が、心理的態度の変化や300人以上もの工員たちにおける習慣の変化は、ゆっくりと、しかも長期に
わたる実践教育を通してのみ成し遂げられる。けれども3年以内にこの工場での生産高は、人一人あたり、機械一台あたりにおいて倍以上となった。人々は厳選
され、ほとんどの場合、仕事において下層から上層へと昇進した。そして彼らは、彼らの指導者つまり職能別職長から、これまでにも増して高い賃金を得ること
が可能だと説明を受けたのだ。各人の一日の収入の平均的な上がり幅は、35パーセントであった。そ
の一方で、一定量の仕事をこなすために支払われた賃金の合計は以前よりも少なかった。もちろんこの仕事をこなすスピードの向上は、従来のバラバラでおお
ざっぱな方法から、最も速い手作業への転換と、各人によってなされた手作業に関する入念な分析を伴った。(手作業(という言葉)によって、そのような仕事
は、工員の手の器用さと早さによるということを意味する。そしてそれは、機械によってなされた仕事とは無関係である。)科学的な手作業によって作り出され
た時間は多くの場合、機械労働によって作り出された時間よりもはるかに長かった。
一連の作業を見たことの無い、また機械を使ったこと
のないものの、科学的知識を持った人間がなぜ、金属加工の知識と計算尺を使用することで、特定機械を10〜12年間ずっと使い続けた優秀な機械工よりも、2.5〜9倍も作業効率が良いのか、を十分に説明することが重要であるように思われる。要するにその理由は、金属加工
には膨大かつ複雑な科学的知識が必要とされており、たとえどんなに作業時間的な経験を持つ機械工でも、専門家の助けが無ければ、金属加工のノウハウを完全
に理解することが不可能だからである。機械工場労働に馴染みが無い者は、各部品の製造をそれぞれ別々の問題として捉え、他の機械労働とは関係が無いように
見る傾向がある。例えば、エンジンの一つの部品の問題を理解するには、旋盤や機械鉋(かんな)の知識とはまったく違う、一生の人生をささげて身につくよう
なエンジン作りの特定な知識が必要だ、と考えがちである。しかし多様な機械労働を非常な速さでするためには、金属加工の知識が必要とされ、それと比べる
と、特定のエンジンの部品や旋盤の部品の専門的知識はそれほど大事ではないのである。
どのように綺麗にし、整え、切れ端を取り除くか、ま
た最短時間でその部分をスムーズで正確にするのかが問題なのであり、船舶エンジンや印刷装置、自動車でどう使われるかどうかは、あまり問題ではないのであ
る。この方法によって、実際にその一連の仕事自体を具体的には目にしたことがない、金属加工に精通しているような人も、その機械のある部分を作ることを何
年も仕事としている熟練の機械工と、仕事においてはまったく引けをとらないのである。その彼らは、過去に伝統的な技術を用いていたが、現在では労働をし、
実際的に科学を発展させている。しかし一方で教育を受けた人は、機械文化を発達させることが彼らの責任であると考えている。彼らのように、一般化すること
を法則の中に探すことを教育として受け入れてきた人は、全ての職によく似たものが存在するなどという多くの問題に直面した際、皆で論理的に解決するため
に、常識的な法則やルールを探し出そうとすることはまぬがれえない。管理において、科学的管理法の考え方はそれらの解決策となるが、指摘してきたように自
発的貢献とインセンティブの管理の背後にある原理、すなわちその背後にある考え方は、個々の労働者というケースにおいては全ての解決策とならない。
労働者の全体としての時間とは、個々の人々がそれぞ
れの仕事をする、個をベースとした時間のことである。だから、例え労働者が自らの考えを広めるための教育や習慣を持ったとしても、彼はそれらの労働法則を
発展させる機会や時間が欠けている。なぜなら、時間研究という呼び名の簡素な原則の研究ですら、1人はストップウォッチを持ち、もう1人は仕事をするとい
う、2人の協力を必要とするからだ。そして、もしある労働者がおおざっぱなやり方の知識のみのかつて存在した法則を発展させたとしても、彼は、自らの発見
を自分だけの秘密にしようとすることを避けられない。なぜなら彼は、その知識を自分だけ特別に用いることで、1人だけ他の労働者より多く働き、より多くの
賃金を得ることが出来るからだ。
一方で、科学的管理の下では おおざっぱなやり方に
代わる法則を発展させるだけでなく、迅速な労働の方法を労働者たち全体に教育することは、管理に従事している人々の義務でもあり、また楽しみにもなる。そ
れらの改良された法則から得られる有用な結果は常に素晴らしいものであり、それはどんな企業であろうとそのために必要な時間と経験を費やせるほどだ。その
ように、科学的管理の下では、正確な科学的知識とそれらの手法は、多かれ少なかれ全ての場所で、おおざっぱなやり方に取って代わることを確信している。と
ころが古い管理方法の下では、科学的な法則に従った労働は不可能である。技術や科学での金属加工の発展は、この事実にふさわしい例である。1880年の秋、著者が前述の実験−すなわち労働者にとって適切な労働日をどのように制定するか決めること−
を始めたとき、彼はまたMidvale Steel Company社の社長であるWilliam Sellers氏の許可を得て、どんな角度や形の道具が鋼鉄加工するのに最もふさわしいかを
決める一連の実験、また適切な鋼鉄の切断速度を決める実験を始めた。これらの実験が始まったときには、6ヶ月もかからないであろうと彼は推論した。そして
事実、もし要求されている以上に長い期間だと知られていたなら、実験にかかるかなりの額の資金をかけることの許しが得られなかったであろう。
直径66イ
ンチの垂直のボーリングミルは、これらの実験で初めて使われた機械で、均一な質の硬い鋼鉄で作られた大きな運動するタイヤは、労働者がより速く働くために
切断機械の組み立て方、適合の仕方、使用法を徐々に学びながら日に日に細かく切られていった。6ヶ月目の終わりには、実験にかかった費用と材料費を埋め合
わせるほど十分実用的な情報を手に入れた。しかし比較的少数の実験は、それを通じて得られた実際の知識が、課業をこなしている機械工に指示し支援する日常
的な試みの中でさらに開発されるべきもの−そしてそれは、我々がとにかく欲しているものなのだ−のほんの一部にしかすぎないことを、まず明らかにしただけ
であった。
この分野に於ける実験は約26年間、時折の中断を交えながらも続けれ、期間中、実験用の機械が10機
特別に整備された。30,000から50,000の
実験は慎重に記録されているが、その他の沢山の実験の記録は残ってはいない。この法則を考察するにあたり、800,000ポ
ンドの鉄鋼と鉄が実験用機械で小片に切り刻まれ、150,000ドルから200,000ドルが研究資金として使われたと推測されている。
この類いの研究は科学調査の愛好家にとっては、とて
も興味深いものであろう。しかしこの論文の為には実験を長年続けさせた原動力、そしてそれを成功させるに至らせるまでに必要であった経費と機会は、抽象的
な科学知識の追跡ではなく、「機械工がより良く、早く、効率的に仕事をするにはどうしたら良いのか」という日々必要な情報を欠如している、という事実に
よって供給されてきたという事を頭に入れておいてほしい。
全ての実験は、金属加工機の中の鉄片が旋盤、かんな
盤、ボール盤と必ず接触するように、機械工も必ず向き合わなければならない二つの質問を正しく回答できるようになる為に行われた。その二つの問いとは:
最短時間で作業する為に、私はどれほどの切断速度で
機械を動かすべきか?
どの給送装置を私は使用す
るべきか?
それらの質問はただ熟練し
た機械技師の判断を必要とする単純なものに思われる。
しかし、実際に26年
間の研究を経て、全ての場合における答えは、金属切断の法則を述べた複雑な数学的公式の解答を要し、それには12個
の独立変数の影響が測定されなければならないことが分かった。
先程の問いへの答えに多大な影響を及ぼす。各変数に
おける数字は切断速度への影響を示している。
例えば、最初の変数(A)を引用すると、
「割合は、やや硬い鉄鋼や
冷硬された鉄の場合を1とすれば、とても柔らかく低炭素の鋼鉄の場合は100で
ある。」この引用文は、柔らかい鋼鉄が硬い鉄鋼や冷硬された鉄の100倍早く切断可能であるということを
意味している。所定の割合は、これらの各要素に次ぎ、過去にほとんどの機械工が機械を動かす最適速度と最適な給送装置を決める訓練を求められた広範な判断
を表している。
(A) 切断される金属の質について。例えば、切断速度に影
響を与える金属の硬さや他の質について。割合は、やや硬い鉄鋼や冷硬された鉄の場合を1とすれば、
とても柔らかく低炭素の鋼鉄の場合は100である。
(B) 工具を作っている鉄の化学的な構成とその工具の熱処
理方法について。割合は、鍛えられた炭素鋼から作られた工具を1とすれば、最良の速度で作られた工
具は 7である。
(C) 削りとる厚さ、または工具によって取り除かれるらせ
ん状の細長い鉄片や帯状の金属の厚さについて。割合は3/16インチの削りくずの厚さを1とすれば、1 /64インチの削りくずの厚さは3 1/2である。
(D) 工具の刃の先端の形や外形について。割合はねじ切り
の工具を1とすれば、口の広い切断工具は6で
ある。
(E) 豊富な水の流れや他の冷却手段が工具に使われている
かどうかについて。割合は乾式の工具を1とすれば、豊富な水の流れによって冷却される工具は1.41である。
(F)切断の深さについて。割合は1/2インチの切り込みの深さを1とすれば、1/8インチの深さは1.36である。
(G)切断の持続時間、すなわちどれくらいの時間工具を研
がないで作業できるかについて。割合は1時間半ごとに工具をとぐ場合を1とすれば、20分毎休ませれば1.20である。
(H)工具のリップ角とニゲ角について。割合はリップ角が68度の場合を1とすると、61度ならば1.023である。
(I)機械の不穏な振動に原因する品物および工具の弾性に
ついて。割合は不穏に振動している工具を1とすれば、問題なく動いている工具が1.15である。
(J)削るべき鋳物と鍛造物の直径。
(L)工具の表面を削るときにでてくる欠片や作用につい
て。
(M)機械の引く力とスピード、送りの変化。
鉄を裁断するスピードに関する12の変数の効果を検証するために、26年という歳月
が必要だったということを多くの人は理解できないだろう。しかし、このような変数の多い実験を行った経験を持つ人々にとっては、この実験には、かなりの困
難が伴うことは理解できるだろう。実際に、一つ一つの実験に多くの時間費やした原因は12番目の変
数の効果を検証しているときに、それまでの11個の変数を常に同じままに保つことが困難であったか
らである。11個の変数を同じままに保つことは、12番
目の変数を検討することよりもはるかに困難であった。
実用的な使用法がこの知識をもとにつくられるため
に、これらの12の変数が切断速度へ与える影響が次々と調査されるに従って、簡潔な形式でこれまで
に定着している法則を表現する数学的な公式を見出すことが重要であった。展開された12個の公式の
例として次の3つが挙げられる:
P= 45,000 D
14/15 F 3/4
V= 90/T 1/8
V= 11.9/
(F 0.665(48/3 D) 0.2373 + (2.4 / (18 + 24D))
これらの法則が研究され、それを数学的に表す様々な
公式が発見された後も、まだ難しい課題が残っていた。それは、この知識を日常化して十分に利用できるようにするのに、どのようにして早くこれらの複雑な数
学的問題のひとつを解決するかという課題だ。もしこれらの公式を私よりも前に知っていた賢い数学者が正確な答え
(すなわち、いつもの方法で、正しい切断速度と送りを出すことなど)を得ようと試み
たとしても、一つの問題を解くのに、まあ、2時間から6時
間はかかるだろう。つまり、ほとんどの場合、工員がすべての仕事を自分の機械で行うよりも、数学の問題を解くほうがはるかに時間がかかるのだ。このよう
に、私たちが面しているとても重要な課題とは、この問題の早い解決方法を探すことである。また、私たちがその解決方法を探すことに苦労する間にも、その問
題はときどき著者からこの国の有名な数学者に次々と提示されるのだ。彼らはその解決に使う、迅速かつ実用的な方法のため
に報酬を申し出た。こういった人の中には、ただそれを一瞥しただけの人もいたが、その他の人は、すぐ断るのも悪いといって、その報酬を2、3週間保持して
いた。彼らはみな、実際に私たちに対して同じ答えをした。4個の変数、あるときには5、6個の変数を含む問題を解決するのは、多くの場合可能であったが、12個の変数を含む問題を解決するには、「実験と失敗」というゆっくりとした過程を通してやる以外には不可能
であったのだ。
しかしながら、迅速な解決策は、機械工場を管理する
という私達の毎日の仕事のなかで、かなりの必要性があった。数学者からうけた奨励はわずかにも関わらず、私たちは簡潔な解決策を探すのに15年という莫大な時間をかけて、不規則な周期を続けた。過去に4、5人がこの研究に身を投じ、最終的に、私
たちがベスレヘム・スチールにいるときに、「金属切断の技法について」という論文の付表11に説明されて
いるような計算尺が発展していった。これはカール・バース氏がアメリカ機械工業学会に発表した「テーラーシステム経営における機械工場の計算尺」(アメリ
カ機械工業学会紀要25巻)と題された論文にも詳しく述べられている。この計算尺を使うことによって、あ
まり数学の知識のない技師にでもほんの30秒ほどで複雑な作業をこなすことができるようになった。従っ
て、長年にわたって試行錯誤されてきた金属切断の日常化・実践化が達成されたのである。これは、一般の実務家の経験や技術訓練による到達可能領域を超えて
複雑な科学的データを日常化・実践化することが可能であるということをうまく物語っている。この計算尺は長年にわたって全く数学的知識のない機械工によっ
て日常的に使われてきた。
金属切断の法則を述べる複雑な数学的公式(原著109ページ参照)を一瞥してみると、繰り返し同じ仕事をしているいかなる機械工でも、これらの法則の助けな
しに、また彼自身の個人的な経験に頼っていたとしてもこの二つの質問、すなわち
どのスピードを使うべきか?
どの給送管を使うべきか?
に答えるのは不可能だと明確に示している。
十年から十二年の間、何度も同じものを機械加工して
働いてきた機械工の事例に戻ると、彼がこれまでしてきた様々な仕事していた中で、彼の前に横たわる何百もの手法の中からそれぞれの仕事を成し遂げるための
最善の手法を思い付く可能性は微かながらあった。この典型的なケースを考慮する中で、私たちの機械工場の中の金属切断機は、実際には、すべて機械工の製造
業者の当て推量、そして金属切断技術を通して得た知識なしに能率をあげられていることも忘れてはいけない。私たちによって体系化された機械工場のなかで、
私たちは、100個のなかでも製造者によって正確な切断速度に能率をあげられた機械が1個もないことに気付いたのである。したがって、機械工が金属切断の方法と競うためには、彼が相応な速度を使
用する前に、最初に機械の中間軸の上に新しい滑車を置き、さらに、多くの場合は彼の道具の形状や扱いを変えるべきである。そのような変化の多くは、たとえ
彼が何をすべきかを認識していたとしても、彼の管理を完全に超えた問題であった。
もし読者が同じ作業に従事している機械工が得た伝統
的知識は金属切断の正確な技術にはとても対抗できないということを分かっているならば、日々さまざまな仕事をこなす一流の技師がそれ以上にこの技術と対抗
できないということはより明白であろう。毎日異なる作業をする一流の技師が、各々の作業をできるだけ早くこなすためには、金属切断技術の完全な知識に加え
て、一つ一つの手作業を最短時間でこなす広い知識と経験が必要である。そして読者が、ギルブレス氏が煉瓦積み上げの動作時間研究から生み出した利益(進
歩)を思い出した際は、彼の科学的動作と時間研究によって助けられた、全ての職人の前に横たわるあらゆる手作業をより早くこなす方法の大きな可能性を称賛
するだろう。
ここ三十年近く、機械工場の管理に携わっている時間
研究者は、機械工の仕事に関連する全ての要素の科学的動作研究とストップウォチを使った正確な時間研究に専念している。したがって、ある管理部を形成し、
また労働者と協動している指導者が金属切断の技術とこの仕事に関連している綿密な動作研究と時間研究の科学的知識の両方を持っているため、なぜその指導者
の日々の協力なしに、一流の技師でさえも最善の仕事を果たせないかということを理解するのは難しくない。そして、この事実が読者にきちんと理解されれば、
この論文を書くことにおける重要な目的の一つが認識されるだろう。
与えられた説明が、なぜ科学的管理が会社とその従業
員の双方にとって必然的にすべての場合において、「自発的貢献とインセンティブ」の管理によって得ることの出来るものより圧倒的に大きな結果を生み出すに
違いないのかを明白にしたことが期待される。また、これらの結果が、工業的な管理においてある哲学が別の哲学に移ったことによって、ある種の管理のメカニ
ズムの別のメカニズムに対する際立った優位性を通してではなく、むしろある一連の根本的な原則がまったく違う一連の原則に移ったことを通じて得られてきた
ことも、明白であるべきである。
これら全ての説明を通して改めて繰り返し述べると、
この有用な結果は以下の三点を主に決定するようである。
(1)工員の個人的判断に代わる科学。
(2)工員に自身のよる選択と危険なやり方で成長さ
せるものでなく、各工員が学び、教わり、訓練され、また試されるということのあとに起こる工員の科学的選択と成長。
(3)未解決の問題を個々の工員に託すのではなく、
科学的方法に従って共に働くための工員と管理者との本質的な協力。
この新しい原理を従来の各工員の個人的努力の代わり
にあてはめると、いずれも各課業の一日の達成率はほぼ等しい。それは管理者が自分にあった仕事の一部を担うからであり、工員がバランスを保っているからで
ある。
この論文はこの原理を説明するために書かれたのだ
が、この一般的な原則に関連しているいくつかの要素は、さらに深く論議されなければならない。
科学の進歩は恐ろしい事業のように思われており、実
際に金属切断の技術のような科学の徹底的な研究はどうしても何年もの労働を必要とする。しかし、金属切断の技術は、その複雑さやその発展に必要とした時間
において、機械技術の一種の極端な事例を表している。しかしこの非常に複雑な科学でさえ、始まってからほんの数カ月以内には、実験の労働に払われたよりも
多くの知識が得られている。これは、実質的に機械技術におけるすべての科学の発展の事例において確かであるといえる。最初に発展した金属切断の法則は不十
分で部分的にしか正確な知識を含んでいなかった。しかし、この不完全な知識は依然からあった正確性に欠けていた情報や伝統的な大雑把なやり方に比べ良く、
工員は管理者の手も借りることによって、より早く、よく仕事がこなせるようになった。
例えば、何年か後に開発された形に比べれば不完全で
はあったものの、一、二種類の道具を開発するためにほんの少しの時間しか必要なかったし、一般的に使われていた形の種類よりは優れており、使いやすかっ
た。これらの道具は基準として取り扱われ、ただちにこれを使用する全ての人の仕事の能率(をあげた。これらは、いずれ改善されるようになった基準として
残った他の道具に、割と短期間で越されてしまった。
[補足:しばしば、工
作技術に携わる実験者は、彼がそれまでに得た知識を即時に実用的な使用へと移すべきであるか、または、彼の結論においてある明白な終局にたどり着くまで待
つべきなのかという問題に直面することになるだろう。彼は間違いなく、彼が既に確実な進歩を成したという事実を認識するが、同時にさらなる改善の可能性
(もしくは見込み)を見出すことになる。それぞれの特定のケースは、もちろん一つ一つ独立したものとして考慮される必要があるが、私たちが行き着いた一般
的な結論は、ほとんどの場合において、実験者が出した結論をできるだけ早く実用的な使用に向けた厳格なテストへと移すことが賢明だということである。しか
し、それらのテストにおける一つの必要不可欠な条件は、実験者は、徹底的でかつ公平な試みを保証するために、十分な権威に連結した最大限の機会を持たなけ
ればならないということだ。そしてこれは、古きものを支持するほぼ普遍的な偏見、またそれによる新しいものに対する疑いの目のために、得ることが難し
い。]
しかしながら、工作技
術のほとんどに存在する科学は、金属を切断する科学よりもはるかに簡単である。実際ほとんどすべての場合、発展した法則や規則はとても簡単なので一般の人
は権威をつけてそれらを科学という名では呼ばないのである。たいていの職では、科学は、工員がその仕事のいくつかの小部分をなすために要する運動について
の比較的簡単な分析と作業研究を通して発展していくものであり、通常この研究は単にストップウォッチときちんと罫がひかれたノートを持っている人によって
作られているのである。何百というこれらの作業研究員が、以前は伝統的なやり方しか存在しなかった基本的な科学的知識を発展させることに従事しているので
ある。レンガ積みにおけるギルブレス氏の動作研究(原著77〜84ページに記述)でさえ、たいていの場合に生じるものよりさらに入念な研究を含んでいるのだ。この種類の簡
単な法則を発展させるためにとられる一般的な手段は以下の通りである。
1. 10人から15人の特定の仕事に熟練している労働者(なるべく多くの別の企業と地域から)が分析される。
2. それぞれが研究した一
連の作業工程や動作を、それぞれの人が使っている道具も含め調査する。
3. それぞれの基本的動作
をするのに必要な時間をストップウォッチを使用して計り、それぞれの仕事の要素で最も速かった方法を選ぶ。
4. すべての間違った動
作、遅い動作、使えない動作を排除する。
5. すべての必要のない動
作を排除した後、最も早く適切な動作を最適な道具とともに一連の動作としてまとめる。
その後、もっとも速く
て最適なものから作られている一連の動作が含まれているこの新しい方法は、かつて用いられていた10か
ら15の劣っている一連と置き換えられる。この最適な方法は標準となり、まずは指導員もしくは職務
長に教えられ、そして彼らによって全ての施設の中の工員に教えられることによって、よりよく速い発展の一連に取って変わられるまで、標準として残る。この
単純で科学的な要素が相次ぐ方法こそが発展である。
同様に、職で使われて
いた様々な種類の道具は研究されてきた。「自発的貢献とインセンティブ」の管理の哲学の下では、労働者は自分自身が一番良い、すなわち最速で仕事を終わら
せられると判断した物を指名して使っており、その結果、さまざまな特殊な用途のための色々な形や種類の道具が使われてきた。科学的管理法には、第一に、大
雑把なやり方に従って進化してきたある道具の様々な改造を注意深く調査すること、そして次に、道具が仕事を達成できる早さを計測して構築されてきた時間の
研究を基にし、それらの道具の良い点を一つの規範となる道具に統合することの2つが要求され、そして、科学的管理法は労働者に今までにない早さと仕事の容
易さを与えるだろう。そして、この一つの道具は、使用される前に、多くの異なった場所で規範として受け入れられる。その後、その道具は動作と時間の調査を
通して、そちらの方がよりいっそう優れていると証明される道具が使用されるようになるまで、全ての工員にとっての規範として残るのである。
この説明によると、伝
統的なやり方を科学の発達と取り替えるためには、多くの場合すばらしい事業は必要とされず、苦労して科学的なトレーニングをすることなしに、普通の日常生
活によって達成される。しかし、その一方で、成功した道具の最も単純な改善ですら、昔は個人的な努力にのみ存在した記録やシステムや協力が必要となるので
あるといえる。
また、この論文におい
て何度も述べられているが、科学的調査のタイプは他にもある。そしてそれは特別な注目、すなわち、労働者に影響する動機の正確な調査を受けるべきである。
始めは、それは個人的な観察と実験の問題であって、正確な科学的実験に適した題目ではないというふうに見えるだろう。この部類の実験から導き出された法則
は、かなり複雑な有機体(人間)が実験され
た結果によっているので、物質的なものに関係した法則の場合よりも、数多くの例外に支配されていることは確かだ。そして、依然として、このような大多数の
人にあてはまるような法則は紛れもなく存在しており、さらに、人と関わるときの指針として、重要な価値としてはっきりと定義された。これらの法則を発展さ
せる中で、正確かつ慎重に計画され、遂行された実験は、年月を経るうちに拡張され、この論文のなかで言及され続けてきた他の様々な要素を発見するために使
われた実験と、全般的に似たような方法で作られた。おそらく、この部類に属するもっとも重要で、科学的管理法と関係を持つ法則は、課業の考え方が労働者の
効率性におよぼす影響である。実際のところ、これは科学的管理法の仕組みの重要な要素になり、多数の人々によって科学的管理法は「課業管理」として知られ
るようになった。
その課業の見解は全く
新しいことではない。それぞれ我々は、各々の場合において、この見解は学生の頃に用いられてよい成果を上げていた事を思い出すだろう。有能な教師はクラス
の学生たちに、学ぶのに不明確な授業をしようとは思わないだろう。日々明確ではっきりした課業が学識者の前に教師によって用意され、ただその課題について
多く学ばなくてはいけないと言われるが、それは適したこの意味によってのみ学生によって順序だった進歩がなされるのである。普通の学生は、課業を与えられ
る代わりに彼が出来る事を出来るだけするようにいわれたのならば、とてもゆっくりとした進歩になるだろう。私たちはみな成熟した子供であって、だから普通
の労働者が日々与えられた時間の中で成し遂げられるような、熟練の労働者にとって適した日課を構成する明確な課業を与えられたとき、彼自身と雇い主の両者
にとって最大の充足のために働くであろうということは、自然である。これは、労働者がはっきりした規範を与えられ、それによって彼はその日の初めから終わ
りまでの彼自身の進展を測る事ができ、そしてその規範による業績は彼に最大の充足をもたらすのである。
筆者は、労働者によっ
て作られた一連の実験である他の論文の中では、労働者が自身の給料の大きく永続的な増加が保証されない限り、彼らの周りにいるような標準の人よりも熱心に
働く人を確保することは、不可能であることを長い時間をかけて証明した結果となった、と述べている。しかし、この一連の実験は、労働者がたくさんの賃金の
増加を与えられば、多くの労働者が自身の全力の速さで仕事をすることがわかったとも述べている。しかしながら、労働者に、標準を超えたこの増加が永久であ
るということを十分に確信させなければならないのだ。我々の実験は、労働者の行う仕事の種類によって決まる最も早いスピードで仕事をするのに求められる
(給与の)増加量の正確な割合を明らかにしている。
それから、工員達が自分達の割り当てを速いスピード
で行うことを必要とされた課業を日常的に与えられたとき、彼らが成功したときには、彼らがまた、必ず高い賃金率を保証されるべきであることは絶対に不可欠
なことである。このことは、それぞれの工員を日常的な課業に固着させることのみならず、彼らが自分の課業を与えられた時間内で行うことに成功したとき彼ら
に高いボーナス、または賞金を支払うことも含んでいる。ある人が、初めに古いプラン、その後で新しいプランを同一人物に試すのを見ていない限り、工員が自
分の職において最も高い基準の能率とスピードまで自分を高めること、それから彼らをそこで保っておくこと、これら2つ
の要素を適切に使うのに役立つ完全な基準を正しく認識することは難しい。そして実際にある人が、はなはだしく異なる種類の仕事をすることに従事する、様々
な階級の工員に行われた同種の厳密な実験をみるまでは。その課業とボーナスを正しく適用することで、著しくそしてほとんど一律に良い結果が見られるに違い
ないことの価値は認められている。
これらの要素、その課業とボーナス(以前の論文から
指摘されてきたように、様々に応用されうるもの)、は科学的管理法のメカニズムの最も重要な2つの要素を構成している。その課業とボーナスという2つの要
素が用いられるに先んじて、企画部門や正確な時間研究、方法や道具の標準化、発送システム、職務上の職長もしくは指導者の訓練、そして多くの場合指示カー
ド計算尺など(後に原著p129でより詳細を示す)のような、メカニズムのほかの要素のほとんど全てを必
要とする、いわば頂点であるという事実から、特に重要なのである。
工員に対して最も効率的な働き方を体系的に教える必
要性は今まで何度も示されてきた。したがって、この教育がどのように終わったかということに対してもっと細かく説明することが望ましく思える。近代システ
ムの中で管理された機械工場の場合、企画の部門のものたちによって細かく書かれた指示書は前もって準備された仕事をするに際して最善の方法である。それら
の指示は、企画部門にいる独自の専門性や機能をもった数人の仕事の統合を意味しているのである。例えば彼らのうち一人が適切なスピードと使用される切断器
具の専門だったとしよう。彼は、補助として前述した計算尺を、適切なスピードを得るための案内として用いる。別の一人は、工員がその仕事を機械にセッ
ティッングし、また取り外す最も良く素早い動作を分析する。三人目はいまだに、蓄積された時間研究の記録によって、仕事の各要因を行う適切なスピードを記
した時間割をつくる。しかし、彼ら全員にだされる指示は、たった一つの指示カードもしくは用紙に記されているのである。
このような必要とされる人々は彼らのほとんどの時間
を部門の企画に費やす。なぜなら、彼らは仕事で継続的に使う記録やデータと隣り合わせでいなければならいからであり、そしてまた、この仕事は事務作業と妨
害からの自由を必要とするからである。しかしながら、人間というものは、もし、放っておかれるのであれば、多くの労働者は彼らの指示命令書に対してほんの
少しの注意しか払わないというものだ。それゆえ、職務上の職長と呼ばれる指導者達を派遣し、労働者たちが彼らの指示書を理解し、また実行しているかを監督
する必要性があるのだ。
職務上の管理下では旧式の単独労働者は八人の異なった人々にとって代われる。八人の一人一人はそれぞれの特別な義務を負っており、部門の企
画における代理人として行動しているこのような人々は(『工場管理』段落 234から245を参照)常に工場にいて労働者を助け、指示している専門指導者なのである。それぞれの人たちは各自の専門の知
識や技術を持つことを理由に選ばれた人であるので、工員に彼がすべきことを教えるだけではなく、必要が生じたときには、最良で、なおかつ最速な方法を示す
ために、工員の前で彼ら自らがでその仕事をすることもある。
これらの指導者(検査係と呼ばれる)のうちの一人は、仕事をこなすための設計図や指示を工員が理解するように取り計らっている。彼は工員に
正しい仕事の仕方を教える。つまり、きれいかつ正確にやるべき部分はそうできるような方法を、きれいさや正確さが求められていない部分は粗く、そして早く
できるような方法を教えている。成功のための、他の人と同じくらい重要な一員として。二番目の指導者(持ち物係)は、その仕事を彼の機械へ対応させる方法
を工員に示す。そして、最速かつ最良の方法で工員に彼の動きを教える。三人目(速度係)は、
機械が最適な速さで動いていることと、可能な限り短時間で機械が製品を加工し終えることが出来る方法の中で、適当な道具が使われていることを確認する。こ
れらの指導者から与えられた援助に加え、工員は指示と助けを別の四人の人物から受ける。「修理係」からは調整、清掃、そして彼の機械やベルト類等の全体的
な管理について、「時間原価係」からは、彼の給料と、正式な文書による報告書や報酬に関する全てについて、「作業順序ルート係」からは、彼が作業を行う順
序についてと、工場の一部門から別の部門への作業の動きについてである。そして、工員が係との揉め事に巻き込まれた場合は、「工場規律係」がその工員と面
談する。
もちろん理解しておかなければならないことは、同じ
種類の仕事に従事している全ての工員が、職長からの同じだけの個別指導や配慮を求めないということである。与えられた操業に新しく就いた工員たちは自然
と、同じ種類の仕事に長くついている工員たちより、はるかに多くの指導や観察を要求する。
さて、全てのこの指導と緻密な指図を通して仕事が工
員にとって明らかに円滑で容易なものとなったとき、第一印象は、これがすべての工員を単なるロ
ボットとし、融通の利かない人間としてしまうという傾向があるということである。工員が初めてこのシステムのもとに来た時「なぜ私は、誰か
が私のやろうとすることに干渉したり誰かが私の代わりにやってくれるということなしに、考えたり行動することが許されないのか」としばしば言うように。し
かし、同様の批判や反対が、全ての他の近代的分業における労働者に対して起こることもある。例えば、現代の外科医は、この国の開拓者よりもずっと心が狭
く、融通が利かないということにはならない。しかしながら、開拓者は外科医だけではなく、設計士、家屋建築士、製材業者、農家、兵士そして、医師にもなら
なくてはいけなかった。さらに、彼は法的な問題を銃を以て処理しなければならなかった。現代の外科医の生活は今後制限される、又は彼は開拓者よりも樵であ
ると辛うじて言えるかもしれない。その外科医が出会い、解決するあまたの問題は、それらの開拓者が彼らの道を開拓し、広げてきたのと同じくらい入り組んで
いて難解だ。
外科医の訓練は、特定の管理下の元の労働者が与えられる教授と訓練とほぼ等しいということを覚えておくべきである。その外科医は、彼の早期
の年月を全て通して、より経験のある人物による閉鎖的な管理の元にいる。その人物は彼の仕事の各要素がどのように最善に為されるかを最小限の方法で彼に示
すのである。熟練者たちは新米外科医に、そのどれもが特別な研究や開発の対象であるようなもっとも良質な器具を提供し、それらを最良の方法で使いこなすよ
う要求する。しかしながら、この指導のいずれもその外科医を狭量にするわけではない。それどころか彼は、前任者たちの最良の知識をすぐに与えられ、また
(彼の初期段階において)世界最新最良の知識を代表する標準的な器具と方法を与えられるので、古いものを発明し直す代わりに、彼本来の独創性や創意を用い
て世界の知識により、現実的な付け加えをなすことができるのである。同様に、科学的な管理のもと、多くの管理者と工員というのは、すべての問題を“その人任せ”にされ何の援助もなく仕事をこなさなくてはならない
ときに比べて、少なくとも同じくらいか通常はそれ以上の良い発達をする機会を持っているのである。
もし、彼の仕事のためだけに作成された法律の助けも
借りずに、全てこの教えなしで工員が更に大きくて優秀な男へと発達ができるのであれば、今数学や物理、化学、ラテン語、ギリシャ語etc.において教師の助けを求めに大学に来る若者は援助なしで自力でやった方が勉強が良くできるということ
になる。この2つの事例の唯一の違いは、生徒たちが教師たちのもとに来る一方で、科学的な管理のもと自然と遂げられた機械工の仕事に教師たちは彼らのもと
へ行かなければいけないということである。まさに起こっていることは、変わることなく発達する
科学の助けによって、また彼らの管理者の指導を通じて、知的能力を持った工員それぞれが過去よりもより高度でより面白く、また最終的により発達し、より有
益な種の仕事をすることが可能であるということだ。かつて何もできなかった労働者、おそらくシャベルを使ったり、土を場所から場所へ運んだり、仕事が工場
のある部分から別の場所へ移ったりしていた労働者が、多くの場合より初歩の機械工作者の仕事を教えられるのである。またふさわしい環境と機械工作者の仕事
にふさわしい面白い多様性や、より高い賃金がともなってくるのである。低賃金工作者や助手、その人たちはおそらくかつて単純な訓練のプレスしかできなかっ
た人だが、より複雑で、またより高額な旋盤とかんなの仕事を教えられるのである。その一方で、より熟練し、より知能の高い機械工作者は、機能的な職長や管
理者になるのである。まさに生産ライン上などにおいてである。
科学的管理法とは、工員が彼の持つ手段、それは古い
タイプの管理法によるものだが、それを改善するだけでなく、かれが仕事を遂行するうえでの新たな、かつよりよい方法を創意工夫のもと用いることのインセン
ティブとは異なったものである。科学的管理法のもとで、工員が日常的な慣習のもとに適していると考える方法や手段を用いることが許されないのは明らかであ
る。しかしながら、工員にたいして手段と方法をともに改善させることを促すために、あらゆる手助けはなされるべきだろう。そして工員がみずから改善を提案
した時は、それが何であれ慎重に考慮するべきであるというのがこの管理法の方針であり、そして必要があれば一連の実験を行い、新しい方法と古い方法のメ
リットを正確に測る必要があるだろう。そして新しい方法が明らかに古いものよりも優れている場合は、それは制度全体の標準として適用されるべきである。工員はその改善に十分な功績を与えられるべきであ
り、また彼らの工夫の報酬として割り増した給与が支払われるべきである。このように、旧式の個人別制度ではなく、科学的管理法の方が、労働者の本当の自発
的貢献が達成されるのである。
しかしながら、最近の科学管理法の発展の歴史においては、一言警告をする必要がある。この管理のメカニズムは、それ自体の本質やその土台に
ある哲学において誤った理解をされるべきではない。まさに同じメカニズムが、一方で破滅的な結果をもたらし、もう一方で最大の利益になるからである。基礎
的な科学管理の原則を用いたとき、最良の結果を生むであろうその同じメカニズムは、それを使う人がもつ間違った精神に同調されてしまった場合、我々を失敗
と破滅に導くであろう。何百という人々はすで
にこのシステムのメカニズムをその本質のために誤解しているのだ。ガント氏とバース氏と筆者は科学的管理という主題でアメリカ機械工業学会に複数の論文を
提出している。これらの論文の中で、その使用されているメカニズムが詳細に説明されている。このメカニズムの原理を例証すると以下のようになるだろう。
その道具や方法を用いて正確に商品を作るのにかかる、時間研究
機能別の職長の地位とその旧式の単一職長に対する優位性
職で使用する全ての工具や器具の標準化、また各々の労働階級の工員の動作と行動の標準化計画室または計画部門の重要性管理における「特例法
則」
スライドルールの使用
法と類似の時間節約法
労働者の教訓カード
管理法のタスクアイデアは、職務の成功に伴う高いボーナス
区別をつけるためのレート(defferential rate)
工業で使われる機械と同様に工業製品を分別するための記憶術システム
ルーティングシステム
現代的な経費管理システム 他・・
しかしながら、それらはた
だの管理のメカニズムにおいての要素や細部にすぎない。実際は、科学的管理法はある哲学によって構成されている。その結果は、以前述べたように、管理の素
晴らしく基本的で重要な4つの組み合わせの中にある。
第一に、真の科学の発展。
第二に、科学的に選び出された工員。
第三に、その科学的教育と向上。
第四に、管理職と工員の間の友好な協力関係。
しかし、時間研究、機能的職長など、このメカニズム
の要素が真の管理哲学を伴わずに使用されると、悲劇的な結果をもたらすことがある。そして残念なことに、科学的管理法の原則に完璧に理解している人でも、
長年試みている人の忠告に注意を払わず、古い型の管理から新たな型へと急激に変えてしまうと、しばしば深刻な問題が生じ、時には、ストライキの原因とな
り、結果的に失敗してしまう。
筆者は工場管理についての論文で、管理者による、古
い管理法から新しい管理法への急激な変化に伴うリスクに注意するよう述べている。しかし、ほとんどの場合この警告は留意されない。必要とされる物質的な変
化、時間研究、仕事道具の標準化、機械一つ一つの研究、そしてそれらを完璧な順番に配置するというのは全て時間を要することである。しかし、これらの要素
の研究、向上が早ければ早いほど、企業にとってよりよい。その一方で、「自発的貢献とインセンティブ」管理法から科学的管理法への変化におけるとても大き
な問題の本質は心構えと工員、および管理に関わっている全てのものの習慣にある。そしてこの変化は工員への複数の客観的練習の実践からのみ、だんだんとも
たらされる。これは、彼が受けた教育と共に、古い管理法より、新しい管理法のほうが優位であることを完全に納得させる。この工員の心構えの変化には、いや
おうなしに時間を必要とする。この変化はある一定の速さよりも急がせようとすることは不可能である。筆者は、変化を企図していた者に対し、それはいくら単
純なものでも2から3 年、時には4から5年かかると、何度も警告した。
工員に影響を与える最初のいくつかの変化は非常に
ゆっくりともたらされるべきであり、また一度にただ一人の工員が始めから対処するべきである。この一人の工員が新しい方法によって大きな利益が彼に与えら
れたと完全に納得するまで、それ以上の変化はもたらされるべきではない。そして、一人の工員が別の工員の後に如才なく移行されるべきである。会社の雇用下
にある工員の1/4から1/3が古い方法か
ら新しい方法に変わる時点を過ぎた後、とても急速な発展が可能である。なぜなら、一般的に、その頃全体系の確立に関する世論における完全な革命的出来事が
あったからであり、また、実際に古い体制下で働いている全工員が新しい計画下で働いた工員たちによって得られた利益を理解し、その利益を分け合うことを願
うようになったからである。
著者自身は管理システムの導入のビジネス(金銭的な
対価を求めた仕事)から退職したので、科学的な管理システム導入のエキスパートや管理システムを深く研究した者の恩恵を得られた企業は幸運であると強調す
ることを二度と躊躇しない。彼らの貢献は、新しく変革された管理システムのマネージャーのポジションを与えられても十分な対価でないであろう。古い管理法
から新しい管理法への移行を手掛けた者は、この移行特有の壁に突き当たった経験を多く持っているであろう(手の込んだ仕事には共通することであろうが)。筆者は自分に残っている人生を賭けて献身する理由と
して、このような仕事を彼らの職業にしたい人々に手伝うことと会社の管理者とオーナに一般的にこのような変化にどのようなプロセスが必要かを助言すること
だと考えている。
まだ科学的管理法を導入するかどうか迷っている人々
に対する警告として次のような例が挙げられる。ストライキの危険や運営の成功の妨害なしでの「自発的貢献とインセンティブ」管理法から科学的管理法への変
化に必要な、豊富な経験を持たない何人かの人々が、3000人から4000人を雇用して、非常に精巧な体系での生産量を急速に増加させることを試みた。この変革をつくり出す事
を引き受けた者は、真に心から工員に関心があり、稀な能力と同時に情熱を持つ者であると私は考える。 彼
らは執筆する事によって報酬を与えられるのだが、しかしこの体系に変革をもたらす事は決して三年から五年では遂行することはできず、非常に時間がかかるは
ずである。 彼らはこの警告に全く注意を払わない。 彼らが間違いなく信じていたのは、これらの科学的管理法の原則の代わりに、「自発的貢献とインセ
ンティブ」管理法の原則と科学的管理法のメカニズムを組み合わせて活用できたこと、また、彼らがおそらく一年もしくは二年で、昔は現在の二倍ほども要求さ
れていた事を証明したということであろう。 例えば、正確な時間研究から得られる知識
は、強力な道具であり、あるケースでは、徐々に教育や訓練、また新しくより良い仕事の方法へ工員を導くことによって工員と管理者との間の調和を促進するた
めに、または、別のケースでは、それは多かれ少なかれ、工員が過去受け取っていたのとだいたい同じ給料で、より大きな一日あたりの仕事をすることに、彼ら
を追い込むための棍棒として使われるかもしれない。残念なことに、この仕事を受け持った者は、工員を徐々に導き教育するのに向いている職長や先生を訓練す
るのに必要な時間と労力をかけなかった。彼らは、古いスタイルの職長を通して、また新兵器(正確な時間研究)で武装して、徐々に工員を新しい方法へ教育・
指導することを、また、実例を通して、工員にとって課業管理とはいくぶん大変な仕事であるが非常に大きな繁栄を意味すると確信させることの代わりに、彼ら
の望みに反して、多くの昇給なしでの大変過酷な労働へ追いやることを試みた。基礎原則の軽視のすべての結果は、以下のような一連のストライキに続いて、変
化を起こそうとした人々の失脚や、システムの導入の結果、取り組みが行われる前に存在していたものよりもはるかに悪い条件へと戻ってしまったことである。
この例は管理の本質を欠いたまま新たな管理の手法を
使うことの無益さや、過去の経験を全く無視して、必然的な長期の施行を短縮しようとする試みの無益さの客観的な教訓として引用される。この仕事を引き受け
た人々は有能かつまじめであることと、失敗は彼らの能力の欠如ではなく行うことが不可能であった事を引き受けたこととすべきであるということは、強調され
るべきである。これらの特徴的な人々は同様の失敗をしないだろうし、彼らの経験は他の人への警告として作用するだろうと望まれる。
これに関して、もう一
度述べておこう。科学的管理法の導入が熱心に行われてきたこの30年間というもの、旧式から新しく
変化していく真っただ中にあった批判的な時期でさえも、渦中で働いている人たちから一度もストライキは起こらなかった。この仕事を経験したことがある人に
よって適切な方法が取られてさえいれば、ストライキが起こったり、他の問題が起こったりする危険は全くない。
科学的管理法を強く必要とし、この変革に必要な時間や変革に関する全てのことを正しく理解していない限り、科学的管理法の基本的な内容を会
社の重役たちがきちんと理解し、信じていない限り、制度の管理者は、旧式から新式への変革は手の込んだ仕事であるので、決して引き受けるべきではない、と
筆者はもう一度忠告している。
おそらく、特に工員に興味を持っている者たちは不満をこぼすだろう。なぜなら、科学的管理法において工員は、以前にこなしていた仕事量の二
倍の仕事量をこなす方法を提示されても、以前の二倍の賃金を支払われることはないのだから。一方工員よりもさらに配当に興味を持つ者たちはこのシステムに
おいて工員が以前よりも高い賃金を受け取るという不満をこぼすであろう。
例えば、能力のない者が行った3.6倍の鉄を積み重ねる程に熟練した能力のある銑鉄
を扱うものが、たった60%アップの賃金を受け取るようなありのままの主張が形成される時それはひ
どく不当なものに見えるだろう。
しかしながら、この場
合における全ての要素が考慮されるまでは、どのような最終的な判断を下すことも公正ではない。一見したところ、我々は工員とその雇用主の、その業務に関係
する二つの集団しか見ていない。我々は、先の二つの集団の生産物を購入し、また最終的に工員の給与と雇用主の利益の両方を支払う第三の偉大な勢力、全ての
人々、つまり消費者を見落としているのである。例えば過去数百年間で、生産を増やし文明化された世界を繁栄させた要因は手工業労働に取って代わった機械で
ある。疑いなくこの変化は消費者に一番大きな利益をもたらした。
短い期間で、特に特許にされた機械、配当をもたらす新しい機械が多く登場した。そして多くの場合、しかし不幸にも普遍的ではないが、労働者は高い給料、短
い労働時間、そしてより良い労働環境を得た。最終的にはそれらは全員に行き渡った。
そしてこの結果が、機
械が導入されたのと同様に科学的管理の導入となるであろう。
銑鉄を取り扱う人の事例に戻ろう。その時、私たちは、生産高の著しい増加によってもたらされた大きな利益が、結局はより安い銑鉄という形で
人々に与えられるということを想定しなければならない。そして、労働者と雇い主の間でどのようなバランスで分けられるのか、つまりは、何が杭打ちをしてい
る人々にとって公平で正当な報酬なのか、何を利益として会社のために残しておくべきなのかを決定する前に、私たちはすべての側面からその問題を見なければ
ならない。
第一に
私たちが先に述べたように、銑鉄を取り扱う人は、見つけるのが難しい並はずれた人間なのではなく、彼は多かれ少なかれ、精神的にも肉体的にもずっしりとし
た、雄牛のようなタイプの単なる人間である。
第二にこの人は他の健康な一般労働者が疲れているのと同様に適切な一日の作業によって疲れている。(もしこの男が自分の仕事で疲れすぎてい
たなら、そのときはその仕事が不当に定められていたということで、科学的管理法の対象からは程遠いものである。)
第三に彼が大きな一日
の作業をやり遂げたことは彼の自発性や独創性のおかげではなく、発展していて、彼がほかの人から教えられた銑鉄作業の科学的知識のおかげである。
第四に同じ一般的な等
級の人たち(彼らのあらゆる能力を考慮した時)は、彼らが皆その持てる能力をすべて出して働いているときにはだいたい同じ給料をもらうべきであるというの
が正当で公平である。(たとえば、この人にほかの一般的なの人たちがまっとうな一日の労働をして受け取る賃金よりも3
6/10倍の高い給料を払うことは、他の労働者にとってひどく不公平であるだろう。)
第五に74 ページで説明されたように、彼が受け取る給料が60パーセントも上昇したのは、職長や監督の恣意的な判断の結果ではなく、全てを考慮したときに、どんな報酬
が工員の正当で最善の利益のためか、公平に行われた一連の慎重な試みの結果なのである。
それゆえ、給料が60パーセント上昇した銑鉄作業員は、哀れみの対象ではなく祝福の対象なのである、ということが我々にはわか
る。
しかしながら、結局、
沢山の事例において、事実は意見や理論よりも説得力のあるものであり、過去 30年の間にこの仕組
みに支配されてきた工員たちが、受け取る給料の上昇に常に満足し、その一方で、雇い主も配当金の上昇を平等に喜んでいる、というのは重要な事実なのであ
る。
消費者の権利はしたがって雇用主と被雇用者のどちらの権利よりも強大である。そして、この第三の偉大な集団は、すべての利益から彼等の適切
な分け前を与えられるべきなのである。それどころか、工業の歴史を一瞥すれば、最終的に全ての人々が工業の進歩から生じた利益の最も多くの部分を受け取っ
ているということが分かるだろう。
この筆者も、世の中の経営の実態を見た第三者(一般人)はおおよそ正当な雇用関係を主張するようになると説く。管理者、労働者双方に飛躍的
な効率を求め、自らの分け前のために労働者に鞭をふるい、低い賃金で長時間労働を強いる管理者を弾劾するであろう。さらには次々と賃金の向上や労働時間の
軽減を主張し、それまでの酷な労働環境を訴追するであろうが、これは効率性の観点で言えばむしろ非効率な主張である。
そして筆者の固く信じ
ているその意図は、まず雇用者と被雇用者双方の効率性を高めるために用いられ、そして彼らの多大な努力による利益の正当な分配は科学的な管理となるだろ
う。そしてそれは、あらゆる要素の問題の偏りのない科学的な調査を通して得られる、すべての人にとっての正当性という唯一の目的のためにある。しばらくの
あいだは、双方ともこの前進に対し抵抗することになるだろう。従業員はこの古めかしい大雑把な方法でのいかなる干渉も嫌がるだろうし、管理者も新しい義務
や重荷を背負うことを要求されることに憤慨するだろう。しかし、最終的には、啓発された世論を通して雇用者も被雇用者も新しい秩序に従わなければならなく
なるだろう。
それが、いかなる新しいことがらも過去にそれを知る者がだれもいなければ明るみに出ることはない、と言われる点で主張されているのは疑いも
ないだろう。実にそのとおりのように思える。科学的な管理は偉大な発明を必要としているわけではないし、新しくてびっくりするような事がらの発見も必要と
しない。しかしこれは、昔存在しなかったいくつかの要素の組み合わせが含まれている。すなわち、昔の知識を、収集、分析、分類、そして区分して科学を構成
する法律や規則を作ると、労働者と管理の側はお互いに対し、そして彼らそれぞれの義務及び責任に対し精神的態度が徹底的に変化する。また、両側の間の新し
い義務の区分は、旧式の管理哲学のもとでは不可能である親しく、好意的な共同の程度に広まる。そして、多数のケースにあるこれら全てでさえも、徐徐に発展
している科学的管理法の体系の助けなくしてはは存在することができない。
単一の要素ではなく、
むしろこの全体の組み合わせが科学的管理法を構成するのであり、これを要約すると次のようになるだろう:
経験に基づく方法では
なく、科学的であること。
不協和ではなく、調
和。
個人主義ではなく、協
力。
制限された生産の代わ
りに、最大限の生産。
それぞれの人間の最大
の効率と金銭的な繁栄へとつながる発展。
筆者がもう一度明言し
たいのは次のことである: 「どんな人間であっても自立してその人の周囲にある助けを受けない状
態で、個人的に偉大な業績を成し遂げようとする者にとって時は速く過ぎていく。そしてそれぞれの人がその人に最も適した役割を行い、それぞれの人がその人
自身の個性を保ちその人の特定の役割において最高であり、同時にそれぞれの人がその人の独自性と個人のイニシアティブを失うことなく、また同時にそれぞれ
の人が管理され他の人々と調和して働くような協力が行われることによって、すべての偉業が成し遂げられる時がやってくるのである。」
上記の、新しい管理法によって実現される生産の増加の例は、獲得が可能であることを正しく示している。それらは特別ないし例外的な事例を示
してはおらず、何千もの同じような実例から選び出されている。
これらの原則を一般的に導入することによる利点を分析してみよう。
一般的に全世界にとってのより大きな利益となる。
標準的な人間が一定の努力をするとして、現在の世代が過去の世代に対して持っている最大の実質的進歩は、現在の人間が、過去の人間が生産す
ることができた物の二倍、三倍、四倍すら生産するということである。もちろん、このような人間が払う努力による生産性の増加は、人間そのものの知能の向上
ということのほかにも、多くの理由によるものである。それは蒸気機関や電気の発見、機械の導入、些細なものから偉大なものにいたる種々の発明、科学の進
歩、そして教育に拠ってもいる。しかし、この生産性の向上がいかなる理由に由来するものであれ、国全体がその繁栄に浴することができるような各個人のより
大きな生産性の向上へとつながっているのである。
作業員の生産性の大幅
な向上がほかの作業員から仕事を奪ってしまうことを危惧する人々は、他のいかなることよりもある一つの要素、すなわち文明化したある国とそうでない国々、
繁栄している人々と貧困にあえぐ人々とを分ける一つの要素、つまりその国の平均的な人間が、他の国の平均的な人間よりも5倍あるいは6倍も生産的であると
いうこと、について認識すべきである。そして(おそらく世界でもっとも精強な国家である)英国内での、ほかのどの文明国よりも高い失業率の主な原因は、可
能な限り一生懸命働くことが自らのもっとも望ましい利益にはならない、という誤った考えに労働者たちがとらわれているために、慎重に自らの産出を制限して
いる点にあるということもまた事実なのだ。
世間一般での科学的管
理法の採用はすなわち、工業に携わる普通の人々の生産性を将来2倍に引き上げることとなろう。この
ことが国全体に何をもたらすのかについて、考えてみるべきである。すなわち、生活必需品と生活奢侈品−これは近年この国のあらゆる場所でも得られるように
なってきているものだが−双方の生産の増加、それが望まれる時には可能となるような労働時間の短縮、そしてその結果、いかに教育や文化、そしてレクリエー
ションへの参加機会の増大をもたらすのかについて考えてみるべきである。一方で事業家と従業員は、世の中全体が生産の増加によって利益を得ることのほかに
も、自らとその周囲の人々に直接もたらされる局所的な特別の利得にさらに興味がもつであろう。科学的管理法とは、それを採用した雇用者と従業員−とりわけ
最初に採用した人々に−両者の間の論争と不和の原因をほぼすべて消し去る方法となるであろう。そこでは交渉と粗(あら)捜しを主題とする代わりに、何を
もって一日の公正な課業とするかが、科学的調査をおこなう上での課題となる。組織的怠業は消え去るであろう。なぜなら組織的怠業をもたらす原因そのものが
もはや存在しなくなるであろうからである。この種の管理法に伴う賃金の大幅な増加は、論争の元となる賃金問題の多くを消し去るであろう。しかしほかのすべ
ての原因にもまして、労使双方による近しく親密な協調と、定常的な個人間の接触とが、摩擦と不満とを逓減させてゆくこととなろう。利害を同じくし、同じ目
的を成し遂げようと一緒に働く彼ら双方が、一日中喧嘩をし続けることは難しいものなのだ。
成果を2倍に向上させることでもたらされる低コストは、この管理法を採用した企業、とりわけこれを最初に取り入れた
企業が、それ以前になしえたよりもはるかに優位な競争を可能にするであろう。そしてこのことは、需要が少ない時期でさえ従業員におおむね一定の課業を与え
るほどの市場の拡大をもたらすであろうし、会社は常により大きな利益を確保することだろう。
このことは、従業員ば
かりではなく彼らを取り巻く直近のコミュニティ全体にとっての繁栄の増進、そして貧困の縮減を意味している。
産出面でのこの大きな
利得がもたらした要素の一つとして、現在、各従業員は最高の能率を発揮できるよう体系的に訓練され、そして古いタイプの管理法の下でなしえたことよりもよ
り高いレベルの作業をするよう教えられている。同時に、以前はその多くの時間を批判と猜疑の眼、そして時には闘争へと発展させることに少なからぬ時間を費
やしてきたところだが、現在の従業員たちは、雇用主と作業条件そのものに対する友好的な心的態度を得ているのだ。科学的な管理システムの元で働く者すべて
に直接もたらされるこの利得こそが、間違いなく(組織的怠業という)問題全体のなかで最も重要な一つの要素なのである。
英国民および米国市民
を騒がせている問題のほとんどに対する解決策はある。しかしそれよりもはるかに重要なのは、それらを実行することで得られる結果の方ではないだろうか?
そして、この重要なことを実現させるようコミュニティ全体に対して働きかけることが、これらの事実を受け入れた者にとっての義務ではないだろうか?
**** プロジェク
ト・グーテンベルグ イーブック フレデリック・ウィンスロー・テイラー著 科学的管理法の原理 翻訳ここまで ****
****End of the Project Gutenberg Ebook Scientidic
Management****
序章・第1章 あとがき
この翻訳は、稲葉が担当していた2003年度の大阪市立大学商学部の外書講読の授業の一環としておこなわれた。プロジェクトグーテンベルグの
サイトにあった『科学的管理法の原理』序章と第1章20ページあまりの文章を30数人で分担して翻訳していったものだ。各自が訳を始める前に参加者全体で基本的な訳語や文体を統一させて
おき、できた訳文を相互にチェックするというやり方ですすめていった。あまりにひどい訳文があった場合は稲葉がその部分を全面改訳した
が、それ以外はほとんど各担当者のオリジナルの文章を使っている。必ずしも英語が得意な学生ばかり集まっていたわけではないので、まだまだ誤訳や稚拙な表
現が残っているかもしれない。時間を見つけて、手直ししていこうと考えている。
読者の皆様にももしもそのような部分が目にとまりま
したら、ご指摘と改訳などお送りいただければ訳者一同幸甚の極みであります。
(2004年
5月1日 稲葉 祐之)
翻訳者氏名(敬称略、翻訳順)
上田 悠貴
古澤 弘生
大塚 剛
小島 淑行
佐々木 経太
辻 紘司
浜田 耕一
山崎 修三
山田 智世
吉富 武志
喜多條 よしみ
阪中 友浩
下田 恭子
谷口 もとみ
三宅 昌和
矢野 千珠
安藤 健太
奥野 仁美
高橋 千尋
一柳 奈々
山田 真生
竹内 早苗
竹田 明美
藤井 義徳
薬師寺 芳行
有田 壮志
板谷 和彦
岸本 豊
高田 靖二
渡辺 想
原 文吾
早川 裕子
片山 賢太郎
中村 剛
+
稲葉 祐之
第2章 あとがき(1)
この翻訳は、稲葉が担当していた2006年度の大阪市立大学商学部の外書講読の授業の一環としておこなわれた。プロジェクトグーテンベルグの
サイトにあった『科学的管理法の原理』第2章の20ページあまりの文章を、30人で分担して翻訳し
ていったものだ。
翻訳の進め方はそれまでと同じやり方を踏襲した。3
回分の授業時間と30人の人手と彼らによる相互チェックがあれば、これだけの翻訳ができてしまうの
だ。
内容はすばらしいが、少々お堅い経営学の古典。しかし何人かの学生たちは、原典をじっくり読むことのおもしろさを理解してくれた。またプロジェクト杉田玄
白に参加したことで「消化単位科目」の観のある外書講読の授業に対するモティベーションもあがった、という感想もあった。そして教える側にとっても、この
翻訳のように授業を通じてなにか残るものができたことは嬉しいものだ。
しかしまだまだ誤訳や稚拙な表
現が残っているかもしれない。時間を見つけて手直ししていこうと考えている。読者の皆様にも、もしもそのような部分が目にとまりましたら、ご指摘と改訳な
どお送りいただければ訳者一同幸甚の極みであります。
(2007年
2月20日 稲葉 祐之)
翻訳者氏名(敬称略、翻訳順)
森鼻 純也
石原 淳一
宇佐見 剛
瓜生島 啓
川村 絵里加
北谷 実加
黄瀬 大祐
志賀 達哉
中井 純一
長岡 美起
西村 卓
堀田 歩美
正田 一仁
和田 真生子
Rudy
Tan
田中 美穂
田渕 敬章
中野 真知子
生川 枝里子
山口 雅史
森本 和久
内海 公宏
江畑 覚司
大塚 晶子
魏 洋
中澤 拓哉
木平 直希
佐々木 瑠央
野田 直哉
佐伯 祐介
+
稲葉 祐之
第2章 あとがき(2)
この翻訳は、稲葉が担当していた2009年度の国際基督教大学教養学部の専門科目『経営学』の授業の一環としておこなわれた。プロジェクト
グーテンベルグのサイトにあった『科学的管理法の原理』第2章の40ページあまりの文章を、60人で分担して翻訳していったものだ。
翻訳の進め方は、それまでと同じやり方を踏襲した。
参加者は3回分の授業時間と60人の人手と彼らによる相互チェックで、かなりのレベルの翻訳ができ
てきた。稲葉は、彼らの訳文をできるだけ活かす形で、構文ミスや専門用語などの校正を行った。一つの理論、一つの方法論を検証するためにテイラーやその同
僚たちが払ってきた愚直なまでの努力と信念が、訳文を通じて伝わるならば嬉しい限りである。
『科学的管理法の原理』も完成まで、あと少し。気長
に進めていこうと思う。
まだまだ誤訳や稚拙な表現が残っているかもしれな
い。時間を見つけて手直ししていこうと考えている。読者の皆様にも、もしもそのような部分が目にとまりましたら、ご指摘と改訳などお知らせいただければ、
訳者一同幸甚の極みであります。
(2009年
7月10日 稲葉 祐之)
翻訳者氏名(敬称略、翻訳順)
前田 慎之介
長澤 昌太
大倉 裕治
宮崎 なみ
宮坂 尚
永田 泰子
佐橋 加奈子
関 真衣
仙波 綾香
鈴木 詩乃
田村 久敬
田中 茉莉子
鵜澤 知世
谷澤 聡
横山 里美
池畑 浩恵
川又 聖也
谷口 佳惟
阿部 紘子
荒木 さら
荒尾 聡
藤田 温乃
藤田 成文
布施 智恵
平松 春菜
廣岡 克俊
等 若菜
石井 利欧
石川 哲也
神馬 光滋
鎌田 珠里亜
加藤 貴之
川合 真梨子
功刀 早記
草深 生馬
前田 陽
宮崎 晴菜
永松 麻衣
内藤 芳典
新原 渉平
野末 瑞樹
島本 裕子
鈴木 仁士
高野 誠大
竹内 渉
斗ヶ澤 藍
山口 結花
吉野 雄克
角谷 世以良
川瀬 陽一
野崎 瞬
大村 春洋
曽根 夕佳
菅江 美津穂
高橋 佑典
田中 遼太郎
松浦 香代子
+
稲葉 祐之
第2章 あとがき(3)
この翻訳は、稲葉が担当していた2009年度の国際基督教大学教養学部の専門科目『経営学』の授業の一環としておこなわれた。プロジェクト
グーテンベルグのサイトにあった『科学的管理法の原理』第2章の残りの文章を、60人ほどで分担し
て翻訳したものだ。
翻訳の進め方は、それまでと同じやり方を踏襲してい
る。
2003年にこの翻訳をはじめた当時は、まだ大阪市立大学商
学部に着任したばかりのころで、担当した授業『外書講読』の一環で行っていた。毎年担当するわけではなかったので、かなりゆっくりとしたペースであった。
6年後に国際基督教大学に移籍してからも専門科目『経営学』の一環として、やはりプロジェクトは淡々と進んだ。そして足かけ8年にわたる翻訳も、ようやく
完成した。この間に翻訳に参加した学生の数は、180人以上に上る。彼らの参加に感謝したい。
まだまだ誤訳や稚拙な表現が残っているかもしれな
い。時間を見つけて手直ししていこうと考えている。読者の皆様にも、もしもそのような部分が目にとまりましたら、ご指摘と改訳などお知らせいただければ、
訳者一同幸甚の極みであります。
(2011年
3月19日 稲葉 祐之)
翻訳者氏名(敬称略、翻訳順)
遠藤 久美
伊藤 優
北川 史花
工藤 信
成田 友彦
西野 悠
小川 千花
岡本 雅康
佐藤 彩乃
白水 久美子
虎岩 航平
Lo, Chin-ting
阿部 琴衣
茨田 優子
原 麻夕
樋山 里美
堀井 香那
飯沼 将大
猪爪 孝幸
石澤 知樹
笠原 大地
加藤 梨奈
木村 いづみ
小林 智美
近藤 成美
久保田 耕史
朽葉 卓哉
桝田 令美
松田 未来
松山 真維
三浦 香織
中川 絢子
中里 慶昭
岡崎 有華
鈴木 康平
田内 実花子
米山 歩結
由宇 加苗
湯浅 綾華
北村 友里
森本 晋太郎
斎藤 彩子
谷 佑子
吉本 雄
Joh Hee Jae
飯沼 貴大
香村 和宏
町田 健太郎
中川 縁
寺本 竜司
塚本 暢
島川 修侍
野田 さとみ
板垣 心平
山元 大
坪田 駆
森岡 智世
星野 君依
岩崎 頌子
須田 航
+
稲葉 祐之
©OCU & ICU Project Sugita Genpaku Participants, 2004-2011