a 先進国の大学は1969年を中心とする激動期を1960年代の後半に迎えた。大学紛争は1970年代の始めに収束したが、その沈静後に学問の再形成の意欲が胎動した。「アジア文化研究所」は早くも1971年から翌年にかけて、長清子研究所長の提唱と努力により韓国、中国、日本を比較する研究に着手して、すでに国際的な研究集会の開催などの経験を積み重ねていた。この活動による視野の拡大と問題意識の深化とともに、1972年には新しいアジア文化研究の大学院構想が芽生えた。
b 1970年に入ってからの歴史学関係の教員の充実はめざましく、超Aクラスの教授が外部より次々に着任した。文化勲章を受賞することになる大塚久雄(経済史)と山本達郎(アジア史)の両教授、それにキリシタン研究の第一人者であった海老沢有道教授、それに学内育ちの長清子教授。この四者は新たな大学院を立ち上げる十分な実力と学問的な基盤を用意した。歴史学にはさらにアジアと西欧を研究分野とする教員が加わった。大学委員設置の実力を備えた人的基盤と内実が整った。
c アジア文化研究所の有力教授たちは、大学院の方法論として「比較文化」を選び、研究対象とする「文化」についての共通認識を築いた。大塚、山本両教授が主唱した文化理解は、一般理論、抽象的で主知的な文化理解ではなく、「実践的」かつ「問題解決的」な研究対象としての「学際的な」文化理解であった。これは研究対象の自由度を保証し、文化研究に関心を持つ幅広い研究者を包摂でき、伝統的、文献的な研究態度を採る人文科学の教員にも、文化の基礎研究者としての位置を与えうるものであった。ここに、人文科学科教員が大学紛争による弱体化を乗り越え、大学院に参加する道が開かれた。協力関係の実現は当初の「比較文化」をより豊かにするものであることが、後に証示された。
d 大学院設立には多額の経費を必要とする。幸いにもこの時期、本学の野川沿いから西南方向に広がる広大なキャンパスを東京都に公園用地として売却し、その代金を教学の充実に当てるための「創立25年基金」が1975年10月に設立された。優れた教学計画には投資的予算が計上される道が開かれた。この幸運な時期に行政学研究科の博士後期課程の設置計画が進められ、それに並行するかたちで、比較文化研究科の博士前期・後期の設置計画が進行したのである。比較文化研究科の大学院設置計画については、当時の中川秀恭学長(1975年9月に着任)の理解、助言と支援が大変大きかった。
e 教学計画と人的資源の確保だけでは、当時の文部省に比較文化研究科の設置は申請できない。研究科が新しい包括的な文化理解と学際的な研究方法に適合する学位を修了生に授与できなければならない。博士前期課程については「文学修士」号で対応できるとしても、博士後期課程の修了生に対しては「文学博士」号は適切ではなく、比較文化研究科の構想は授与すべき博士号の問題で行きづまった。しかし幸運にも、1975年に文部省は学問の専門分化に対応する博士学位を次々に新設することを防ぐため、米国のPhDに対応する、文科系各分野における知の統合の達成者に与えられる「学術博士」号の考え方を採用し、新たな学位規定を施行した。これは比較文化研究科には「渡りに船」であった。この新たな博士学位の方針に準拠した第一号が本学の比較文化研究科であった。
c 国外で日本語・日本文化の伝授を比較文化的な視点から実践している者がいる(テルアビブ大学の山森みか氏など)。
H 比較文化研究科の存在意味と形成力
ICUにおける「比較文化」の位置についての私見を記しておこう。
a 比較文化の学問性はICUのリベラル・アーツの精神と設立時に目指した高度の専門教育(大学院大学)の理想との結合として理解される。
b 比較文化研究科はリベラル・アーツの完成であり、エリート教育の使命を達成している。エリートとは、高度の専門知識、広い視野、知的総合
力、深い人間観・世界観、人類に対する使命感、先見性の持ち主である。
c 「リベラル・アーツとは何か」という問いは既存の解答を持たず、実践を通して各自がその意味を追求する。リベラル・アーツをより高度のな
専門研究の予備的な訓練と見なすことは誤りである。リベラル・アーツと専門研究はフィードバックの関係にある。「比較文化」はとくにその
傾向が顕著である。それは授業科目のほとんどを高学年の学部学生が受講できるように始めから計画し、開講してきた研究科の姿勢において明
らかである。
d 「比較文化」の研究方法は、教員と学生の双方において、各自が教育研究の実践を通して開拓すべき課題であり、社会と時代の変動とともに課
題も変化する。開設時における研究方法についての留意は卓見であった。比較文化は、抽象的な理論構築から出発する「演繹」的方法を避けなけ
ればならない。「比較文化」の意味は、学際的な視野を持つ個々の研究とその総合を通して、徐々に納得されるであろう。比較文化の「無規定
性」はこの意味で戦略的に貫かれる必要があろう。「問題指向的」な視点は仮説的な研究と思考実験の繰り返しを要求する。それは比較文化に
固有な方法ではないが、比較文化研究科がこの方法をもっとも自覚している点に研究科の存在意義があろう。
e 「比較文化」の学問性を追求し、これを築く原動力は、まず学生たちの意欲と能力である。「比較文化研究会」のこれまでの活動がそれを証し
している。
f 比較文化研究科の教員たちは、自らの講義、演習を通して、学生たち以上に「比較文化とは何か」の問いに直面する。その緊張感の持続が比較
文化の学問の方法を開拓する条件である。推測ではあるが、この研究科の教員は、修士論文・博士論文審査会、博士候補資格取得のための論文
審査会において、他の審査委員の質問もしくはコメントに反応して、教員間で意見を交換することが多い。それは教員たちにとって、学問対象
に対する新しい方法と視角を得て、問題意識を深めることができる貴重な機会である。