【第4回ICU哲学研究会 要旨集】

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『存在と時間』における単独化について

磯田雄輝

 本発表は『存在と時間』における「単独化(Vereinzelung)」の意義を、ハイデガーの存在の問いとの関連で明らかにする。そしてこのことを通じて、ハイデガーの存在の問いにおける本質的な事柄に接近することを試みる。
 本発表ではまず、『存在と時間』における「存在の問い」の特異な性格を改めて把握する。その上で、「不安」と「死への先駆」との連関において、単独化がいかなる事柄であるかということを把握する。最後に、この単独化の存在の問いにおける意義を明らかにする。その結果、単独化は存在の問いの「方法」あるいは「いかに」であると捉えるべきことが示される。


Okay, I'll be Part of This World
──可能なき世界とスピノザ的自由──

上野修

 われわれはふつう、現実は別なふうでありえたと考えます。これを「別様の可能」と言っておきましょう。われわれは別様にもふるまえただろうし、これからどうするか、ああもこうも選べる。それが「自由」だと言われる。ところがスピノザはこの別様の可能を形而上学的に絶滅させます。現実は必然だからこそほかでもないこの現実である。それ以外は頭のなかの想像にすぎない。現実は「神」(あるいは自然)そのもので、ほかには何もないのだから。スピノザ哲学はいわゆる決定論ではありません。決定論は予見可能を含意しますが、スピノザの必然は予見不可能な必然だからです。そしてこうした必然を自らの現実存在の肯定となすもの、これをスピノザは「自由なもの」と名づけていました。発表ではこの自由について考えます。


ニーチェ哲学における「自由と必然」
──中期作品~『ツァラトゥストラ』を中心として──

五郎丸仁美

 ニーチェ哲学において「自由と必然」の問題が最も先鋭化するのが、『ツァラトゥストラ』における超人思想と永遠回帰説の間の矛盾であることは、異論のないところであろう。前者は自由な自己創造及び自己超克を前提としているように見え、後者は同じものが永遠に繰り返すという一種の決定論としてそうした自由の余地を一切排除してしまうからである。しかし一方でツァラトゥストラは、 「自由と必然の一致」を 高らかに歌っている。それは祝祭的な状態における高揚感のなかでのみ感得されうるものなのだろうか。
 この発表では、主に中期作品に見られる「自由精神」と「自由意志の否定」の共存という上記の矛盾の前形態を追いながら、ニーチェが「自由と必然」の問題をどのように捉えていたのかを再検討してみたい。それによって、人間の意志の自由と因果的必然の間の相剋という伝統的な解釈とは異なった、この問題に対するあるアプローチの仕方を提示できればと考えている。