【第5回ICU哲学研究会 要旨集】

※要旨の掲載をご希望の方のみ掲載しております。


「日本」をめぐる問い
──北畠親房の歴史思想──

齋藤公太

 日本において哲学は存在しうるのか、という問題は、日本が近代以降、「哲学」というディシプリンを西洋から輸入して以来、常に問われてきた。その際しばしば引き合いに出されるのは、「わが日本古より今に至るまで哲学なし」(『一年有半』)という中江兆民の言葉である。この言葉は、単にディシプリンとしての「哲学」が日本に存在していなかったということだけではなく、日本には何か原理的な思索を阻害するものが根強く存在していることを含意している。かかる問題意識は、丸山眞男に代表される戦後の日本思想史研究においても一貫して保持されていたものであった。今回の発表では、他ならぬ「日本」を主題とし、「日本」という条件のもとで営まれた思想として、南北朝時代の公卿・北畠親房の歴史思想を取り上げ、日本における哲学的思考の可能性について考察する。
 親房の『神皇正統記』は神国思想を発揚した歴史論として知られるが、実際のその叙述には、歴史と倫理、あるいは神と人間の関係をめぐる複雑な思考の跡がうかがわれる。本発表は、そのような機微に即して親房の歴史思想の構造を明らかにするとともに、丸山眞男ら近代の日本人によるその解釈にも論及する。


3.11の問い
その場所と時間

内山田康

3.11
危機の所在と今生きているものの責任についての一つの理解

田中敦

 ICU哲学研究会の発足以来5年目の会を迎えることになりますが、これまでの歩みを振り返ると、我々自身が生きる今日の時代の理解に深いところで関わっていることに気づかされます。それは時代の現実から遊離することなく、しかしまた時代の現実の流れにそのまま乗ったり、流されたりすることなく、という難しくはあるが必要な「批判」の保持という本研究会の趣旨の表現と言ってよいのではないかと思います。第5回目に当る今回は、元来の計画では別なテーマについてある先生に講演をお願いする予定だったのですが、諸般の事情でそれは不可能になりました。そこで急遽、昨年の3月11日の震災と原子力発電所の事故の問題を取り上げることとし、無理を言って筑波大学社会人類学教授の内山田康氏にお引き受け頂くことにしました。昨年の春学期、田中敦担当の一般教育「哲学の世界」で内山田氏にゲストスピーカーをお願いした機会に、何度か自由な討論を交わす中で内山田氏が語られたことで記憶に残るものがあり、是非この問題で語って頂こうと考えた次第です。
 内山田氏は当然躊躇されましたが、最終的に引き受けて頂きました。その際に頂いた幾つかのメールから、今回氏に依頼する趣旨に重なると思われる部分を紹介させて頂きたいと思います。
 「ご依頼のテーマは専門外なのですが、災害は突然やってくるので、専門家でなくても誰でも関わりを持つ重要な問題だと考えます。」「3/11の出来事をどう理解するか、という問題で、私が出来るかもしれない問題提起は、3/11に接近する我々の暗黙の前提の主要ないくつかを批判的に取り上げ考えながら、そのような前提によって何が起こっているのか、皆で考えるというものになるでしょう。3/11と社会、3/11と公共政策、という一般的に受け入れられている接近方法は、3/11をある意味で分かり易く翻訳して遠ざけているかもしれない、と思うのです。「3/11を既存の組織とか既知の知の体系など、自分が比較優位を持っている地平に取り込んで翻訳して提示するのではなく、認識の仕方から問い直すことはできないか、そのようなことを漠然と考えていました。しかし、その道を辿ろうとすると、道らしい道などなく、その先をどう行ったら良いのか見当もつかず、最初の直感を頼りに、のろのろとあちこち歩き回っています。」「専門家の話を期待しないで聞いて頂けるのなら、災害の後に残されていた片付けられる前の瓦礫のような形態の思考の断片をお話しします。」
 社会人類学者として、専門外の話を、しかも十分な時間的猶予もなく、哲学「研究会」と名乗る団体の会で話して頂くよう依頼することは、常識的に考えると有り得ないことです。その意味で私、田中敦の依頼は非常識と言ってよいものです。しかしその理由が誤っているとは思っていません。それは内山田氏の発題そのもので判断していただけると思います。
 他方、このように無理な依頼をした経緯があり、私自身が何らかの形でこの問題に関して見解を示す責任を逃れようもなく、運営委員会での御了承を得て、最終的に田中敦が内山田氏と一緒に発題を行うことになりました。以下には、こうした経緯と関係させて簡単に今回の私の発題の概要を述べます。
 3.11からの出来事を思い返すと、我々は抵抗しようもない自然の圧倒的な猛威、また一旦機能に支障が生じたら容易には制御し難い核施設の壊滅的な事故、そしてそれに伴う生活の場所、食料品、飲料水の安全確保等という極めて困難な状況、こうした非常事態とも言うべき現実が日常に紛れる形で未だに続いていることを意識させられます。これらの問題に対処し、制御・処理し、打開するにはあらゆる分野の専門的・技術的な知識を総動員しても足りないと思われるほどです。そのような事態を前にして、果たして哲学に何か言うべきこと、言い得ることがあるのか。これが先ず最初に考えるべき問いであるように思われます。これは正に何らかの形で哲学に関心を持ち、また携わる者が無関心であってはならない問題です。
 「哲学的に」この問題に向き合うとはどういうことでしょうか。その意味を明らかにしながら、そしてそのことの理解を通して、我々が危機と感じている事柄を一層深く大きく受け止めることができるのではないだろうか。それを皆さんと共に考えてみたいと思っています。その要点を簡単な言葉で言い表せば、ソフィストの仕事からの差異化ということになりますが、それを単に言葉のレベルでではなく、具体的かつ本質的に辿ることが、こうした機会になされるべきことであろうと考えています。
 この差異化の手掛りは「前理論的」関わりにあると考えます。この場合の前理論的については、我々が通常思い浮かべるように、理論の方から見て「未だ理論化されていない」という意味ではなく、既に理論的な枠組みを定めてしまっているところから、その枠組みの可能性を開くという意味で考えることが大切です。伝統的な用語に手掛りを求めるならばア・プリオリの探求という問題にもなるでしょう。