【第6回ICU哲学研究会 要旨集】

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ニーチェ『人間的、あまりに人間的』における認識・自由・正義について

井西弘樹

 ニーチェの『人間的、あまりに人間的』(以下、『人間的』)は一般にニーチェの中期思想の最初に位置づけられる書物であり、アフォリズム形式がはじめて採用された著作でもある。この著作は、形而上学、道徳、宗教、芸術などに対する批判的でシニカルな分析を基本としており、アポロン―ディオニュソスという形而上学的原理に基づき生の肯定への方途を情熱的に論じた初期の『悲劇の誕生』からのニーチェ自身の思想的転換を色濃く反映した書物であると言える。本発表では、『人間的』におけるニーチェの思考の全体像を捉えるために、認識・自由・正義という三つの理念に着目する。最初に、『人間的』の哲学的方法と言える「認識 Erkenntnis」について考察し、その特徴を明確にしたい。それは、思考の起源を問題とする「歴史的哲学」であり、起源への洞察を通して、さまざまな「信念」からの解放を目的とする方法である。次に、そうした認識がもたらす一見するとあまりにペシミスティックな洞察にどう向き合うかという問題に対し、ニーチェが「自由精神」という理想を通して導き出す回答について述べる。最後に、ニーチェが認識の試みの理想として掲げる「正義」について考察する。さまざまな信念からの自由を目指すニーチェの認識の試みは、物事を公正に認識するという困難な課題への挑戦でもある。しかし、認識の正義の重要性にも関わらず、正義の基礎としての「力の均衡」という中期ニーチェ正義論の核心が登場するのは、法の起源を考察する別の文脈においてのみであり、認識の文脈において表立って言及されることはない。この政治哲学の文脈で語られる正義の起源への洞察―力の均衡―が、いかにして認識の正義の文脈へと接続されうるかについて、認識者の持つ「力」とは何かを考えるところから試論を展開したい。


『精神現象学』における道徳性の問題

小井沼広嗣

 ヘーゲルの『精神現象学』は、個別の意識が経験を通じてみずからの存立根拠である精神を自覚化していく認識論的過程、あるいは逆から見れば、実体的な精神が個別の意識へとみずからを現象させる存在論的過程を叙述するものであり、第一義的には実践哲学を主題としていない。しかし、同書の「理性」章Bから「精神」章に及ぶ叙述には、次のようなヘーゲルの実践的な問題関心が含まれていることが読み取れる。すなわち、個と共同性とが美しい調和をなしていた古代ギリシャの人倫の崩壊とともに生じた「主観性」の原理のもとで、なお共同的なものの再興は可能であるのか、というものである。ヘーゲルは、その主観性の原理の最も先鋭な形態を、カントやドイツ・ロマンティカーに代表される「道徳性」の立場に見出すとともに、その道徳性が「人倫的実体の意識」、「この実体を自分自身の本質として知る意識」となりうることを論じることで、この問題に取り組んでいる。


古代ギリシア・ローマ思想における技術進展言説について
──特にセネカ『倫理書簡集』90およびルクレティウス『事物の本性について』4.925-1457をめぐって──

佐野好則

 人間が自然の脅威に曝された原初的な生活から発して様々な技術を獲得し文化的なポリス生活にいたるという技術進展言説が、紀元前5世紀のギリシアに現れ流行した形跡が見出される。本講演においては、このような言説が成立した背景および前5世紀におけるこの言説のヴァリエーション、さらに前4世紀以後の変遷を瞥見した上で、ローマ時代のストア派哲学者セネカの倫理書簡およびエピクロス派の哲学詩『事物の本性について』に用いられている技術進展言説を比較検討し、列挙される技術項目の違いや、それぞれの技術項目の描写の違いに注目し、そこから浮かび上がる思想的背景の相違を考察する。自然と技術の関係の把握のひとつの型である技術進展言説の例を提供し、比較文化的なディスカッションへとつながる機縁となれば幸いである。