【第7回ICU哲学研究会 要旨集】

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神の存在について
──ヒューム信念論からの考察──

片山裕太

 ヒュームが『人間本性論』の中で展開する哲学的諸問題についての探求、例えば必然的結合や、外的物体の存在等についての探求は、人間から独立した「それ自体」についての探求等ではなく、あくまでも人間の自然(human nature)についての探求を基礎に置いている。これがヒュームが彼自身の哲学を「人間学」と呼ぶ所以である。
 従ってヒューム哲学の中では、自然宗教についての探求も人間学に依存しているのであるが、神の存在というものは本質的にヒュームの経験論、特に因果論とは相容れない性質をもっている。なぜならばヒュームが言うには、我々は端的に神という存在を直接的に経験したことがないからである。本発表における問いは、『人間本性論』における因果論や『人間知性研究』の第十一章「特殊的摂理と未来の状態について」の中で、神の存在に対して理論的には否定的な立場をとってきたかの様に見えるヒュームが、神の存在についてどの様に考えていたのかということにある。ヒューム哲学、人間学においては、神の存在の問題というものは即ち、神の存在についての我々の信念の問題である。そこで本発表では、『人間本性論』における信念論を基礎に置きつつ、ヒューム自身の宗教論である『宗教の自然史』と『自然宗教に関する対話』において展開される神の存在の問題について検討し、ヒュームがこの問題についてどのように考えていたのか、その解釈の一可能性を見出す。
 はじめにヒュームの信念論を確認した後、神の存在のアプリオリな論証とアポステリオリな論証(デザイン論証)についてなされる批判を概観し、この批判を、外的物体の存在に関する二重存在説についてなされる批判と比較する。そしてヒュームが神の存在の信念をあらゆる懐疑から逃れさせ、その信念を信念として担保していたのであり、ヒュームの批判は神の存在を論証しようとする哲学者たちへの批判であったことを確認していきたい。
 本発表が神の存在について、人間学という観点から一つの考え方・アプローチを提供でき、多様な観点からご意見を頂くことができれば幸いである。


セネカ『自然研究』6巻における"侮る者"の提唱にいたる展開について
──地裂の恐ろしさと自然学的知見──

山口京一郎

 セネカの『自然研究』6巻は、ポンペイを含むカンパニア地方を襲った大地震(62年2月5日)を受けて書かれた。自然学的な地震研究史及びセネカ自身による地震考察に多くの筆を費やしつつも、全体としては「慰め」と「不安を取り除くこと」を目的としている(1.4, 2.1)。最終節で"人は死ぬものである""いつ、どのような形で死ぬかは重要ではない""死は悪いものではない""死に直面する準備をせよ""という主張へ至る(32.12)ことに端的に表れているように、セネカの処方は、平等な死の受け入れである。
 本発表では、『自然研究』6巻がいかなる仕方で死の受け入れを主張するかを、特に地裂への恐怖への対処に注目して検討する。冒頭の2章では"大地の裂け目"を恐れる人々に触れられる。地裂への恐怖、また地下への恐怖は、地震災害に対して人々が抱く恐れの代表的なもののひとつである。これに対し、32.4で提唱される"侮る者"(魂/命(anima)を軽視する(contemno)者)は、天変地異を平静に眺め、台地が裂けてあらわになった冥界の縁から平静に飛び降りるであろうとされる。その間に置かれた3章から31章までの地震考察部分は地下の構造についての話題が主であり、"裂け目"などに関する多様な語を淡々と用いている。したがってこの部分は主題である地震考察に留まらず、地下と地裂の客観視によって"侮る者"提唱の準備ともなっている。そのほかいくつかの点に触れつつ、地裂の恐ろしさに対して死の受け入れを主張する展開を検討していきたい。


『神学政治論』における"Certitudo Moralis"を考える

高木久夫

 『神学政治論』第2章と同7、15章を中心に見られる "certitudo moralis" は、よく知られるとおり「数学的確実性」と対比され、スコラ的伝統から借用された術語です。日本語では「心性的確実性」「道徳的確実性」などとその訳も定まらず、やや分かりにくい概念と言えるでしょう。とはいえこの概念は、聖書の教えは根拠と目的を哲学と異にしながらも信ずるに足る、とする『神学政治論』の中心的な主張において、枢要な役割を果たします。今回の発表では、スピノザの宗教論におけるこの概念の定位を確認し、あわせてこの概念のスピノザ的含意の背景に、非スコラ的伝統を読み込むことが許されるかを考えたいと思います。