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学と歴史
──ヘーゲル『精神現象学』における歴史性の一側面──
飯泉佑介
哲学を、知の原理を探求する試みと見なすならば、G.W.F. ヘーゲルの主著『精神現象学』(1807年)は、知(と存在)の原理としての「学」を生成するとされる点において、優れて哲学的な試みであるといえる。この生成を、ヘーゲルは、感性的確信から絶対知に至る「意識の経験の道」を叙述することによって遂行しようとする。しかし、一方で奇妙にも、こうした「学」の生成は、「時代が実現する」ものとして考えられている。確かにヘーゲルにとって、「われわれの時代」―すなわち、1800年前後のドイツ―は、「誕生と新しい時期への移行の時代」だった。とはいえ、時代が「学」を実現するとはどのような事態を意味するのだろうか。そうした時代性・歴史性が、ヘーゲルの個人的な時代意識に過ぎないのでないとすれば、それはどのようなものでありうるのだろうか。
本発表の課題は、上述の問題意識に基づいて、『精神現象学』を「学」のいわば歴史的正当化の企てとして解釈しつつ、「学」の実現とその時代との(ヘーゲル哲学における)入り組んだ関係を解きほぐすことである。もっとも、近年のヘーゲル哲学研究は、「学」の実現にかかわる時代性と『精神現象学』における「学」の生成の論理を必ずしも関連付けているわけではないし、両者を関連付ける古典的な解釈にしても、それらが「意識の経験の道」に即して、実際にどのように関係しているのかという点までは明らかにしていない。そこで本発表では、まず準備作業としてヘーゲルのいう「学」の理念的特性を描き出し、次にイェナ時代初期の論文や著作のうちに「学」の歴史的正当化という企てを見出した上で、『精神現象学』における「学」の歴史的正当化の論理を明らかにしたい。最後の点については、発表時間の制約のため、あくまで同著の全体構成に関する大まかな解釈を提示するだけに留まらざるをえないが、この解釈を通じて、本発表の着眼点が、単なるテキスト解釈上のものではなく、今日の哲学の課題の一つを逆照射する視座を開くものであることが示されるだろう。
善と哲学
──プラトンと学ぶ──
栗原裕次
本報告で私は、「今ここに私が座っている」という行為の分析から始めて、善とは何かを問い、プラトンの哲学を援用することで、可能な限り答えていく。まず、行為の原因としての「よい」との思いが、人生のよさとしての幸福(=よく生きる)と目的論的関係にある点に注目し、人生のよさを理解するには「人間の生のはたらき」の究明が必要であることを指摘する。幸福を願う私たちは幸福やその手段について知らねばならない(以上、第Ⅰ節)。それゆえ次に、善と知の関係を問題にする。善について知り得ない人間にとっては、知らないことを自覚する哲学者のあり方が参考になる。哲学者は知者たる神と知らないのに知っていると思う無知者の中間者であり、善の知を愛し求める探究者である(以上、第Ⅱ節)。さらに「よい」との思いの構造と原因を「洞窟の比喩」「想起説」「太陽の比喩」との関係で解明し、その思いに関わる哲学者の役割に光を当てる。<善>のイデアを認識した哲学者は大衆の魂の向け変えに従事することを強制されるのだった(以上、第Ⅲ節)。最後に、「よい」との思いに付随する「自己」理解に焦点を当て、「自己」の全体(=人格)を公私論や責任論との関わりで論じる。真の哲学者は人格の理想型として捉えられる(以上、第Ⅳ節)。かくして、本報告は全体として、<善>のイデアに関わる哲学者のあり方を手がかりとして、「よい」との思いと幸福(=よく生きる)の内実を探っていくことにある。
【テキスト】参照箇所は以下の通り。資料として配布するが、時間の都合で報告内では読み上げない。
第Ⅰ節
A『パイドン』98d-99a
B『ニコマコス倫理学』第1巻第2章、第4章
C『ゴルギアス』467e
D『国家』353d-354a
E『ゴルギアス』468b-c
第Ⅱ節
F『ソクラテスの弁明』21d-e
G『ゴルギアス』460b-c
H『饗宴』203e-204c, 『リュシス』208a-b
I『ソクラテスの弁明』22e-23c
J『饗宴』209e-211a
第Ⅲ節
K『国家』514a-517a(Nを含む)
L『国家』508b-509a
M『国家』536d-537a
第Ⅳ節
O『国家』520e-521a