【第11回ICU哲学研究会 要旨集】

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身体に刻み込まれた「知」
──徂徠ルネサンス──

小島康敬

 〇〇情報学部、情報△△学科、やたらと目につく「情報」の二文字。既存の学部学科名に 「情報」の二文字を加えてインターネットで検索すると大抵ヒットする。そこで学生達に 質問する。「あなたが大学で求めるのは情報ですか、知ですか」と。そして自らにも問う。 「知」と「情報」とどこが違うのか、「知」はどこへ行ってしまったのか、と。
 「情報」は一過性で流れてゆくものであり、古い情報は捨てられ新しい情報に更新され なければ役に立たない。時刻表やマニュアルを覚えていれば便利であろうが、それをいく ら眺めていたからとて、それで人生が豊かに感じられるとは思えない。対して、「知」は 蓄積されることによって、その人の内で発酵し、その人の見識や世界観・価値観の形成に 関わってくるものであろう。
 これまで大学とは「知」を鍛錬形成する場であると思っていたが、昨今の大学を取りま く環境はそうではないようである。知を形成するプロセスは無視もしくは軽視され、カタ ログ化された知(知識)が顧客としての学生さんのニーズに応じて過剰・過保護な教育サ ービスをもって販売されているかのようである(知の商品化)。
 私達はPC/スマフォを前にすれば「情報」を即座に取り出せるような、便利この上ない 社会を生きている。それは膨大な知を手に入れたかのごとく錯覚させる。必要なときに スマートスピーカにでも尋ねれば、AIさんがすぐに応えてくれる(必要な時に取り出し、 消費されるだけの「知」)。しかしそれで本当に「知」が「身についた」(知の身体化) のであろうか。
 学びの省力化と能率化が一段と進む今日的状況下にあって、「徳」をキーワードに、江 戸の思想家荻生徂徠の言説に立ち帰って、江戸時代の「学び」の在り方を考察したい。 そして、それが近代から現代に至る私達の希釈化された、薄っぺらな「知」(サラサラ 知)の様態を考え直す契機になればと願う。